デロリンマン

 

 5速マニュアルミッション用シフトノブ『KL001-M NATSUME』。むかし戸塚のラリーショップに図面を持ち込み作ってもらった、ワンオフ品だ。

このシフトノブには、私の魂が入っている()
 

 すっかり磨滅して艶が出てしまったこのシフトノブを握り、そっと瞼を閉じれば、色々なシーンが浮かんで来る。あの頃の私はデロリン樹脂(ジュラコン)製のノブがこんなになるほど激しくシフトを繰り返していたんだ。その走りは推して知るべし。ははは。

手放したクルマが最後にガレージから出てゆく直前、私はこのノブと新車の頃に外した純正品とをこっそり付け替えた。その時走行距離計が60,000kmを示していたのをハッキリと覚えている。

十五年もかけて走ったのがたったの60,000km。なのにシフトノブのこの擦り切れ具合は、なんなんだ()。元々茶道具の棗をイメージしてデザインしたんだけど、こりゃ漆塗りの骨董品みたいにトロトロんなっちょるね。


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 アイツを手放してから、その後は荒れたよな。クルマなんかなんでもよくなっちゃって、ノークラの眠たいクルマばっかり乗り回してたっけ。

それでも時々仕事中に気が昂ると、乗ってたハイヤーの運転手を言葉巧みに助手席に追いやり、「最高速チャレ~ンジ!」とかで憂さ晴らしをしたりしたもんだ。

でも、時速180キロ以上はどうやっても出ない。アイツとは違いハイヤーに使う国産のオヤジグルマは、どんなにエンジンが大きくても時速180キロの壁を超えることができなかった。それでアクセルべた踏みなのにボルボS80なんかに敗けた夜、私の中で何かが壊れたんだ。

メーター時速180キロでパワーカットの振動を繰り返すハイヤーのハンドルを思いっきり叩きながら、私は叫び続けていた。

「畜生ッ、ファック!!もっとスピードを出せ!ファッキユーメーン!!」

本当の力を見せてみろ、ボルボにも追い付けないのかこのクソグルマ!ボーシェッ!!ボーシェッ!!

真夜中の第三京浜上り線。ゆっくりと遠ざかるボルボのテールライトを睨みつけながら、私は失速していった。

隣で引き攣っていた運転手の横顔は、ナトリウム灯で真っ黄色だったよ。


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 目を開け、掌を開いてシフトノブを見直す。

 NATSUMEは汗でびっしょりと濡れていた。

 癒えないもんだよな。愚か者。











カバ男の過去ブログ:『ユーノス・ロードスター パーツカタログ』 



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 ケイズ?
 ああ、この道まっつぐ行って右に曲がって左に曲がったビルの2階さ。
 いいっつことよ、気いつけて行きな。

 

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 何んだい、やつてるかつて?

アンタ、今頃になつてナニいつてんだよ。

モウジャカスカやってんだぜ(笑)!

 

 

 







 

 

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ザ・レーサー

 

 中島祥和『ザ・レーサー』は昭和六十二(1987)年三月の発行。編集発行が三推社で発売発行が講談社というヤヌス的出版は、先のエントリー『バイクフリークたちの午後』も同様の建付けで出版されていたことを思い起こさせる。

自動車関連図書の世界で三推社と講談社のジョイント出版は非常に多く、当ブログでもこれまで折に触れ取り上げてきた。しかしよほどの所縁(ゆかり)本か稀覯書でもなければ出版の事情は関知しない『カバ男のブログ』なので、今回もサるッと割愛しておこう。

 B6判仮綴じ、小口三方裁ち放し。本文は総活版の単色刷りで213頁ある。見えているのは比較的コンディションを維持した完本で、無線綴じの本冊に多色刷りコート紙のカバーが巻かれているのが分かるだろうか。画像で「サーキット群雄伝」と大書された肌色の部分は、アイキャッチのための別紙腰巻(帯)である。

 

 本書は、レーシングドライバーの言動から見えてくる特異な精神構造を考察しようと試みた、ルポルタージュ。著者の中島氏は表紙カバーのクレジットに「報知新聞運動部」とあるように、本職はスポーツ系の新聞記者と思われる。パリ駐在の経歴もあるらしい。同じカバーの袖にある著者紹介によると昭和131938)年生まれというから、本書が出版された当時の中島氏は五十歳を目前に脂の乗り切ったお年頃といったらよかろうか。

本文の記述から推して、中島氏は戦後モータースポーツの黎明期を知る人物のようである。同紙のスポーツ欄に署名記事を寄せることも多く、レース記事をメインにモータリング趣味全般の報道にプロパーで携わってきた方なのかな、などとも思われる。いわゆるクルマ業界レース業界の人間ではないため、一定の距離を置いて部外者の目で書かれた記事は冷静で、硬い響きを帯びているようにも感ぜられた。

タイトル頁の裏に洋書風の仮奥付があり、「Book Design JUN KAWADA」の個人名が見られる。ほかに制作スタッフらしき人名のクレジットはなかった。

 

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無線綴じの製本なので遊び紙は存在せず、表紙デザインを縮刷されたユニークな見返し紙をめくると早速に「孤独のコックピット」と題された六頁立ての前書きが始まる。以降「目次」「第1章 死神を見た男たち」「第2章 駆け抜けていった男たち」「第3章 時間を飛び超す男たち」「第4章 超能力を持った男たち」「おわりに」と、実質四章立ての構成で記述が進んでゆく。

 

 「死神を見た男たち」として、本文はいきなり19746月のレース中に発生した多重死亡事故の詳しい解説から始まる。富士グランチャンピオンシリーズ第2戦「富士グラン300kmレース」第2ヒート。才能に溢れた風戸裕、鈴木誠一の両名が命を落とすこととなり、これ以降に編まれた国内レース史料では例外なく特筆されることになるこの大惨事から筆を起こした中島氏の思惑は、全体那辺にあったのであろうか。

本書はその後の全篇に亙って死の影を濃く曳き、重い読後感を残す。人によっては読了を待たずに頁を閉ざすことにもなったかもしれない。レーシングマシンの中で生身のドライバーが絶命してゆくという事故の悲惨な事実を、中島氏が新聞記者らしい削ぎ落した文体で綴るその一言ひと言が鋭く刺さる。否応なく読む者の心を抉ってくる。それほどの重圧が文章の端々から感ぜられる、自動車関連図書としては異常ともいえる息苦しさを漂わせているのである。

 モータースポーツといわずスポーツ全般の特性として、プレイヤーが落命もしくは重篤な障害を負う事故の危険性は、常に内包されている。中でも、残念ながらレースに於ける死というのは、ほかのスポーツイベント以上に屡々発生している印象はある。500から時には1,000馬力以上を発生するマシンにガソリンを満載し、ストレートではジェット旅客機の離陸速度を超えるスピードで疾駆してゆくのがレースなのである。その間レーサーは起きている事すべてを認識しているワケでもなく、むしろ単純化された運転操作を繰り返しながら、少しでも速く誰よりも先にゴールすることだけに強く集中しているといってよい。なので、予期しないアクシデントは大事故に直結する。

本書が採り上げるようなトップカテゴリーだけではなく、地方選手権やマイナーイベントに組み込まれた入門クラスに挑戦するアマチュアレーサーの世界でも、死は身近にあるものだ。1980年代の後半から趣味で二輪・四輪のレースに関与してきた私自身、テストやスポーツ走行中の何人もの残念な事例を見聞している。これはと思える光った走りの新人が頭角すら現さぬまま斃れてゆくのを目の当たりにすると、無常などという生易しい感情では言い尽くせない衝撃を受けるものである。ただ、名も無い若手レーサーの死は専門誌に訃報の一行すら載らないままひっそりと過ぎてゆくのに引き較べ、数万人という観客が見守るレースイベント中のアクシデントでトップレーサーが失われる出来事はニュースとなり、場合によっては社会現象にまでなってゆく。その違いがあるだけなのだ。彼を取り巻く人々に永く癒えることのない喪失の痛手を残してゆくことには些かの変わりもなく、起きてしまった事実を避けて通る術はないのである。
 にも拘わらず、それを承知でより速くパワフルに最高峰の勝利だけを求めて平然と戦い続け、それを職業にまでしてしまうプロレーサーの面々。彼らが抱え込む繊細で複雑なメンタリティーを「タフネス」「名誉欲」「狂気の沙汰」とありきたりな言葉で言い表すことはできない。

 

 本書には写真やカットが一枚も挿入されていない。曲がりなりにも本書は自動車関連図書であり、クルマ本には解説図版や写真が当たり前のように援用されているところ、その常識はまったく無視されているようだ。時代はとうに文芸書にまで本文イラストが用いられる「ビジュアル化」全盛だったというのに、中島氏は終始タテ書きのテキスト一本で読者には視覚的な休息を一切許さずに、最後まで押し通している。この点は興味深く、文章によって生きて来た新聞記者の気骨であったのかとも思える。
 テキストだけで写真が一枚も用いられていないクルマ本がどの程度存在するものか。不図私は、1991年に若一光司氏が国道上に供えられた生花の写真だけの構成で世に問うた異色の写真集『国道1号線の手向け花』を思い出した。本書『ザ・レーサー』とこの写真集は視覚的に全く対極でありながら、底に流れる雰囲気が驚くほどに似通っている。

 

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 読書中は終始ゴワゴワした本文用紙の手触りと活版明朝に特有のフォントから来る刺激が、重大事件を報じる号外でも読んでいるかのような錯覚を起こさせていた。その焦燥感と緊張感が非日常的で、これも本書の内容に大変よく沿ったものという印象がある。
 もし、これらがレーサーの死を起点にメンタリティーの解剖を目指した本書に対する自覚的な装幀の結果であったとしたら、当時の三推社には人の潜在意識を操る恐るべき編集者が実在していたことになる。そんな荒唐無稽な妄想をぼんやりと繰り広げつつ、私は本書を閉じ、写真やイラストが一切ないクルマ本はどれくらいあるのだろうと書架を見上げるのであった。

 

 

カバ男のブログ:『国道1号線の手向け花』 

 

 

 

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