ザリガニ

 

 ザリガニ解禁の報に接し、「船橋の北欧家具屋」に行ってみた。

 

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 「カバっち食べないの?ザリガニ」

「いらねー。そんな小皿に二三匹寝そべってるの食ったって、歯に引っかかるだけで腹にゃ落ちて来やしねいぜ」

「ふーん、あっそ。じゃ全部アタシが食べちゃうからね!ラッキー」

 

 分かってんのかなマヒロは。ザリガニなんかアメリカ人も中国人も食うけどさ、一人前がバケツみたいな丼に山盛りで出て来るもんなんだぜ。アメリカじゃドラム缶一杯に茹でたって五人前にもならねいんだ。そうゆう食い物なんだよな。

 

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 「ああマヒロ、言っとくけどね、ザリガニったあ尻尾だけ食ってあとはばんばん捨てるもんだぞ」

「なあにソレ。じゃ、食べるとこなんかないじゃない!ミソは?ミソ食べないの?」

「いやダメダメ。殻むしってザリガニのミソ啜るなんざ、中国だってよっぽど田舎の連中がやることさ。みっともないから尻尾だけ食ってあとは捨てなさい」

「やあよ、じゃ500円ほとんど田んぼに捨てるみたいなもんじゃないの。くやしいわ」

500円て・・。ほかに食い物たっくさんあるじゃんか。代わりにシュリンプパイ食べたらいいだろ、ほら」

「いやだ!そうゆう問題じゃないのよ。くやしいからミソ啜ってやる!」

 ありゃまー素手でザリガニばらばらに解体してるよ。で甲羅の裏側ぺろぺろ舐めて、猫かキミは()

 

 「どうだった?マッカチンのミソ」

「大して味しなかった。尻尾も普通かな。いい勉強になったわよ」

「ソースも付けずに貪り食ってたもんなー。ま気が済めばそれでよろしい」

「でもくやしいわ、500円をほとんど捨てたみたいでくやしいの。元を取った気がしないのよ!アタシなんでザリガニなんか頼んだんだろ。我ながらどうかしていたわ

「いや、いつも通りだ。それよりさ、ちょいっと手でも洗ってさっぱりしませんか。はいタオル」

キイキイ言いながら、マヒロはザリガニのミソでくわんくわんになった口と手を洗いに席を立っていった。

 

 人は500円であそこまで悔しがれるものなのか。

マヒロの背中が見えなくなるのをたしかめた私は、皿の下に隠してあった塩の袋を切り、全部の料理に振り撒いた。

 

 

 




 

 

 

 

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バイクフリークたちの午後

 

 山川健一『バイクフリークたちの午後』。

この本は編集兼発行人が三推社、講談社が発行所(発行元)というお定まりのパターンで、昭和五十八(1983)年七月に刊行されている。B6判無線仮綴じ製本の単色刷り203頁、カバー掛け。
 書影は同書の極美サンプルである。

 奥付に「ベストカーブックス②」の表記があり、シリーズと巻次を示しているものと思われる。編集スタッフの数がやたらに多く、本文末に頁を分けて「PHOTO 花岡弘明 長濱治 清家富夫 さいとうさだちか 山辺達義 山田真人 橋本玲 二石友希」「イラスト 古橋義文」のクレジット。奥付にもダメ押しで「カバー装幀 川上成夫」「カバーイラスト マーチン荻沢」「本文イラスト 古橋義文」と人名が犇き合っている。

全体で何点の刊行があるのかは知らないが、四輪の専門誌である『ベストカーガイド(当時)』から派生した叢書が初手からバイク本というのは拍子抜けするのである。見えている外装カバーもまた相当な脱力もので、マーチン荻沢氏によって描かれている二十七人の内で似ているのが一人もいないというヘタウマぶりに呆然としてしまう。星野一義氏に至ってはフルフェイスヘルメットを描いているだけなのに、そのヘルメットすら似ていない()
 あいやこの時代にのちの破壊的ヘタウマイラストブームの到来を正確に予見していたのか、と却って感動を覚えるべきだったか?違うだろう。

 

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 本書はバイク生活をエンジョイする芸能人をはじめとした有名人二十六人へのインタビュー集。本文は『ベストバイク』誌の連載「素晴らしきバイクフリークたち」より一部を抜粋、加筆再構成したものであると巻末に記されていた。及び文中に「Tea Break」として山川氏自身の既発表バイクエッセイ十篇ほども再録されている。

自身もバイクに乗るという山川氏がライダーとしても知られる有名人一人ひとりと一対一で対峙し、インタビューを進めてゆく。清貧と高潔を旨とする二輪業界誌と違ってむせ返るほどカネの匂いが漂う自動車業界誌をベースに企画された本だけあり、さすがに制作体制も豪華なら取材対象も落語家から俳優、歌手、写真家等々とそこはかとないセレブ感が漂っているのである。


 本書が出された1983年といえば長引く円高不況からゆっくりと経済が回復基調に乗り、社会全体がバブルに向かってパッパラパーなピンク色に染まりはじめた時期。バイクの世界にもようやく陽が当たり、なにやら流行の大波が寄せて来るのを実感できた。今日では芸能人が美容整形歴とか在日朝鮮族の出身をカミングアウトするのがブームになっているように、この当時は我も我もとライダー宣言をはじめて、古いオートバイ乗りの面々は苦笑を禁じ得なかったものだ。

失われた三十年と言われて好景気を知らないまま親になる世代もチラホラ出現している昨今からは到底想像できないが、国の根幹となる重厚長大産業を切り捨てたわがニッポンの1980年代は、ビックリするほどお気楽でチャラかったのである。


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 米山義男氏が1990年に出した『バイク伝説の神様たち』を思い出させる構成の本書、二百頁の本文にこれだけの取材対象を取り上げて自前のエッセイまで盛り込んでいるので、当然ながら一人当たりに割く紙幅はとても少ない。ディープに斬り込んで取材対象の人物像を顕にするというよりは、有名人それぞれの「今」を掬い取ってぱらりと文章化しつつ、オシャレな構図でカットを二三枚キメてハイ一丁上がり。そんな軽さの一冊といえようか。

しかしながらそこはマルチ文化人の山川氏。相手から短いながらもこれはと思う言葉をキッチリと引き出していて、一言が、一行が光るのである。なので、ソファに寝転がってちょっとお気楽にナナメ読みでもしとこうか、という気も起きなかった。かといってデスクに畏まって書見するほど堅苦しくもなく、そのファジーな編集スタンス自体が図らずも今の私に時代の雰囲気を思い出させてくれたといってよいかもしれない。
 インタビューそのままに対話形式で再現していったのは、時代の熱を文字として定着させるのに効果的であり、利口なやり方でもあった。

 

 

カバ男のブログ:『バイク伝説の神様たち』

 

 

 

 

 

 

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チョコクロで w

 

 にっこり。

 

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 「こんちゃー!」


 「こんちゃー()

 

 

 




 

 

 

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北海道ミーティング10周年記念 ライダー達の感謝祭カード集

 

 19929月発行『北海道ミーティング10周年記念 ライダー達の感謝祭カード集』。北海道ミーティング実行委員会事務局が編集と発行を兼ねていて、外装カバーには奥付代わりなのか「発行責任者 梅本彰」「写真 三浦裕 林直光 市川陸 長沢“DOSUKOI”直樹」のクレジットがある。

 

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 これは本ではなく、文字通りのカード集である。旧車と呼ばれる古いバイクの写真を刷り込んだ絵葉書二十五枚が、メモパッドのようにホットメルトで綴じられているだけのもの。表紙などの装幀はない。持ち主はこの中から気に入ったものを外し、季節の便りとか
「富良野に来ています。北海道は、でっかいど~!」
みたいなツーリング報告を認めて投函するようになっている。
 ただこれだけだと紙の束として纏まらないから保護用のカバーを掛け、述べた刊記というか制作記録を記してあるワケだ。






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質素でぶっきら棒な紙束だが、古いオートバイ乗りが共有していた温かな世界がこの一冊にぎゅうっと詰まっている。
 懐かしいし非常に落ち着く。






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 この種の草の根イベントはなかなか続かないものなのだが、北海道ミーティングは関係者の継続努力によって、今年
40周年記念大会が立派に行われた模様。


 さすが道産子、粘り強いね。

 

 

 

 

 

 

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洋式帳簿製本の変遷と思い出

 

 間野義光『洋式帳簿製本の変遷と思い出』は、昭和五十二(1977)年七月に日本経理帳簿より発行された私家版非売本。奥付に昭和五十一年五月と編集期日が表記されている通り、粒粒辛苦一年有余もの期間が補筆と推敲に費やされている、真の労作なのである。

本書は数年前に一度当ブログに於いて特装本レプリカの制作経緯を公開しているのだが、冗漫な割に肝心な図書自体の紹介をし忘れるという間抜けなエントリーで、この点がずっと気になっていた。折よく夏の読書で副本を再読したので、改めて書影を含む紹介を試みてみたい。


 NDL ONLINEで蔵書検索をすれば判ることだが、国立国会図書館にもこの稀覯書の架蔵がある。1977年出版の本書、同館が一般からの図書寄贈を受けていた時代だったが、これほど稀少な本を私的に献上するような読書人がいたとは到底思えない。してみると著者による刊行時納本が行われたのであろうか。

画像で見えているのが同業知己に配られた普通版で、経年のヤレこそあるものの至って矍鑠とした完本である。もともと外装附属物は一切ない裸本で、中には間野氏の筆と思しき別紙の挨拶状一片だけが保存されている。表紙に用いられている紙にはこのサンプルと同じシボ紙だけでなく普通の強性紙など数種類あり、いかにも落とし(端材)を集めて巻きましたという体で腰が低い。自ら「紺屋の白袴」と評するほどに素っ気ないけれど、読み終えてみればなるほどと却って共感できる構成といえようか。特装本レプリカの制作に用いた個体同様、本書の表紙平にも著者直筆で献呈先が記されているが、慣例に従って敢えて粉飾した。

 

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四六判糸かがり仮綴じ本。総活版単色刷りで本文だけでも堂々220頁ある。これに関連団体などからの序文が前付けされているほか、実際に罫線引きを施した参照頁とアンティーク帳簿の生写真、東京流羽衣形マーブルの実物見本が文中に挿入されている。

本糸かがりなので仮綴じ本としては異例なほどの堅牢さ、本書の持ち心地は非常に硬く桐の小箱でも持ち上げるような感触がある。その理由は本文の束を寒冷紗代わりの薄紙で締め、強い糊(膠?)で背固めを行っている点。これから解剖してみないと確実なことは言えないが、表面に浮き出た痕跡を観察するかぎり、クサリ(図書製本でいう折丁)の背側に出たかがり糸を絡めて道皮風の細紙で尚も束を締めるという徹底した形態保持を目論みてもいるようだった。なので毎頁みしみしと音を立ててノド元まで見開きながらの読書は実に軽快。この堅牢製本によって、張りのある厚口本文用紙の手触りを楽しみながら終始読み通した後でも、四角四面な書容には些かの乱れもなかった。

いや痛快痛快。これこそが大正末から営々道一筋に帳簿製本を極めてきた著者の、いやさ東京流洋式帳簿製本術の真骨頂なのである。

 

本書は帳簿製本の伝承技能者であり製本所経営者でもある間野義光氏が、古きをたずね今を語る回想録。明治三十六(1903)年生まれの著者は関東大震災と大東亞戦争の動乱期を洋式帳簿製本一筋に駆け抜け、古稀を迎えた節目に事業を子息に承継。いよいよ宿願であった洋式帳簿製本の歴史探訪と資料編纂の途に上ることとなる。

 本書は題名未定のまま入稿したらしく、ゲラの下読みを託された面々の「序」からは『洋式帳簿製本業の思い出』とか『洋式帳簿製造業の沿革史』などという仮題が見受けられた。

タイトルページをめくって早速に製本関連の各団体から寄せられた「序」が続き、「目次」を経て本文へ。章立ては「はしがき」「一、明治時代」「二、大正時代」「三、昭和時代(戦前)」「四、東京の帳簿製本業歴代会長氏名表 睦会 同業会 部会」「五、私が帳簿の製本業を始めた動機と出来事」「六、帳簿を分業的にわけて特に罫線業を紹介する」「七、明治、大正時代の東京での帳簿製本の作り方」と進み、「あとがき」で締めとなっている。

東京流の洋式帳簿製本術は、明治六(1873)年に横濱在留の製本技師であったW.F.パターソンという人物が太政官印書局の製本術教師として雇い上げられた時からその歴史が始まる、というのが定説である。その三十年のちに生まれた間野氏は高等小学校を終えて大正六(1917)年に町場の徒弟として帳簿製本の道に入っているので、当然ながらパターソン本人に面識はなく、開闢当初の製本業界を経験していたワケでもない。著者はパターソンより製本術を直伝された草分け世代からみて第三世代ということになり、職人として独立したのが大正初頭。それまで輸入に頼っていた特殊な装幀用具や専用特漉き紙などがすべて良質な国産品に置き換わった時代、その第一世代と考えてもよいかもしれない。

なので第一章「明治時代」は本書執筆に当たって間野氏が資料を調べたり辛うじてこの当時まで永らえていた諸彦古老の言葉から再構成したパートになるのだが、流石に玄人同士ツーと言えばカーの事情探訪、ここは非常に具体的で独自性の高い資料篇となっている。

東京の洋式帳簿製本が事業として成立してゆく過程では、極初期の段階ですでに官公署向けと民需向けとにはっきり分化していたという記述が意外というか面白い。そして民間に於いて製本術が普及するその陰には、先立って横濱で開業済みであった帳簿業者とマーブル染色や罫線引きの技能者、とりわけ中国人技能者が大きく関与していた事情が記されている。考えてみれば経理簿記の理論もそれに用いる洋式帳簿も共に舶来の文物であり、舶来品は文字通り船便で貿易港からわが国に上陸して来たのである。そして明治時代、東京に至近な貿易港は横濱を措いて他にない。わが国洋式帳簿製本術にはパターソンの印書局御雇い以前、すなわち幕末から明治維新前後に横濱での揺籃期が歴として存在しており、京浜間の人と技能の絶えざる往来が東京流の確立を促していったとも言えるだろう。

間野氏は帳簿の需要地である各地の大都市圏と至近の貿易港との間にも同様な関係が成立しており、それが地域毎に独自性を帯びた製本術を育んでいたのではないかとも述べている。わが国の洋式帳簿製本の揺籃期を思い描く縁としてこの章は、総じて大変な刺激と発見を齎してくれるのであった。

 やがて時代は大正となり、間野氏自身の時代となる。この時代の不況下でも企業活動に不可欠な帳簿の需要は増す一方で、氏も仕事に追われるがまま年を数え徒弟修業を終え、わが国洋式帳簿製本の円熟期を身を以て経験しながら一人前の職人となってゆく。二十歳の徴兵検査も甲種合格し、さて入営の籤は免れたと安心したところにまさかの関東大震災。一夜明ければ借家とはいえ住処は丸焼けで、一物も残らず、おまけに人手不足からか二年間の兵役に取られてしまう。除隊して戻ってみれば、帳簿の世界は既製品大量生産をこととする関西の国誉が大きくシェアを伸ばし、註文誂えの東京流高級帳簿は防戦一方の有り様なのであった。

 

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 述べたように本書ではあちこちに著者の自伝的な記述も見えるのだが、全体の文章量から見るとさしたる紙数ではない。むしろ間野氏は技能伝承者の師弟関係や京浜間の系譜、民間には明治末頃まで残っていたパターソン流の製本技法などを書き残すことに多く紙幅を割いているように見受けられる。しかして戦前の時経列を語る中で、斯業に特有の風俗や仕事風景をとつおいつ点描しつつ、失われてしまった高級誂え帳簿の世界を懐かし気に回顧している筆致がこのうえなく温かかった。

 洋式帳簿と書籍はともに堅表紙本の形をしていて外見的には非常に似通っているが、実際にはまったく異なった成り立ちをしており、技術的に同じ物として見ることはできない。殊に本書で回顧されている戦前期のオーダー帳簿の製本に於いては、全くの別物。一例を挙げるなら、書籍では何頁もの文章や挿絵を大きな全紙の表裏に印刷し、これを畳み込んだ折丁を重ねて本文束を形成してゆく。対して洋式帳簿製本では、あの複雑に交差する罫線さえも別々に水性インクで引いてゆくもので、ノンブル(頁番号)なども一冊分の束を纏めた後で頁を繰りながら手で打ち込んでゆく細やかさ。すなわち東京流洋式帳簿製本の世界には整版を用いた印刷というプロセスがほとんど存在せず、すべて手作業で頁の内容を作ってゆくのが当たり前なのであった。束の小口を化粧裁ちする包丁などという道具も存在していたのである。

ここから始まる気の遠くなるような手製本プロセスについても本書では縷々書き留められており、小口を染める羽衣形マーブルの準備や背文字を金箔押しする工程などでは親方が屏風を閉て回した中で終始一人きりで作業を行うなどという、現代では想像すらできない職人気質の描写が次々と出来する。熟読するにその作業量はパッセ・カルトンで作るルリユウル工芸製本を優に上回っているものと思われ、実際白紙の頁用紙から全ての工程を手作業で作り出された高級誂え帳簿の製品は、ルリユウル作品に充分比肩し得る出来栄えを見せている。本書のこうした記述が私にとって、コレクションしてきたアンティークの帳簿を玩弄吟味する際の有力な知識的バックアップとなっているのである。

 

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 本書は刊行当時、堅表紙の東京流帳簿製本を施した特装本が数冊制作されたといわれている。かつてこの特装本に憧れてレプリカの制作を思い立った私は、技能継承者を探しつつ、ひとつの夢を抱くようになっていった。

 その見果てぬ夢の話はまたいずれ語る日が来るのかもしれないが、今回はここまでにしておこう。



 

 

カバ男のブログ:『洋式帳簿製本の変遷と思い出』特装本レプリカ









 

 

 

 

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