國軆明徵
近所の駅を通ったら、また今年もやっていた笹の葉さーらさら(笑)。
ああ、もう一年が経ったんだなぁ。
今年はなんかカスレたな。弱気んなってんのかな。んへへへへへ
字い知らないワケじゃないけどさ。みんなが読めるよう「常用漢字」で書いといたぜ。
じゃあな。わっはっは!
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Do you want to live forever ?
近所の駅を通ったら、また今年もやっていた笹の葉さーらさら(笑)。
ああ、もう一年が経ったんだなぁ。
今年はなんかカスレたな。弱気んなってんのかな。んへへへへへ
字い知らないワケじゃないけどさ。みんなが読めるよう「常用漢字」で書いといたぜ。
じゃあな。わっはっは!
あのプール、じゃなくて五反田は有楽街にある、青汁飲み放題のファミレスにて。
ただの什器だと思っていたら、突然ブルーのライトが点灯。くるりとこちらに向き直った。
猫?猫なのかコイツ!
もそもそとこちらに向かって動きはじめた。キョロキョロしてる。
料理を載せている。そして客席へ・・・。「BellaBot(ベラボット)」とかいうモデル名が背中に見えている。
そう、コイツは料理を載せてパネルをタッチするだけで自動で運んでくれるロボットなんだ。「ベラちゃん」て呼ばれてるんだって。半年くらい前に一度現れたが、しばらくご無沙汰ですっかり忘れていたよ。
んへへへへ、ベラちゃんなんか粗相でもしたのかな。
ロボットが料理を持ってくる時代んなったのかぁ。なんて思って見送ったけど、最後は人間のスタッフが料理をテーブルの上に乗せていた。
なんとなくホッとした(笑)。
私はじっと、ルリユウル作家の次なる反撃に身構えていた。
今は昔。
ここは目黒権之助坂の途中にある純喫茶の店内。平日の昼下がりとあって客はまばら、BGMも聞こえず目黒通りの雑踏も届かない。死んだような静寂があたりを支配している。本以外に水すら置かれていないテーブルの向こうに件のルリユウル作家が、一回りも年下の女流装幀師が、私と正対して口をきっと結び腰掛けているのだった。気まずい沈黙。
あの言葉を言うべきではなかったのか?しかし、それを言わなければ目の前の本を装幀美術作品として制作してもらう依頼ができない。話が綴じ付けの仕立てに及んだときうっかり、ではないが、私はその本を「テモワンにしてもらえないだろうか」と持ち掛けてしまったのである。
やがて彼女は長い沈黙を破り、氷のように冷たい響きでこう言った。
「カバ男さんは、テモワンってどんな技法なのかご存知?」
「え、テ、テモワンはあの、青猫書房で見せてもらった『チョーサー』の総革本がテモワンだったかな。あれは本文用紙の小口を」
「本文用紙の小口を一枚一枚金箔貼りするんですよ、テモワンは。きちんとやれば本当にきれい。ゴージャスでいつも見蕩れてしまうわ」
「そうそう。真っ白なパーチメントにテモワンの金、ローマ教皇の前掛けみたいにキラキラと光ってすごくきれいだった」
「じゃあ、どんな風な作業かもご存知でしょう?」
「え、ああっと、それは」
「この本は手漉きの紙ですから、小口にはまだ耳が付いたままの漉き放しですよね。頁を切ってもいないわ。それで私は味わいがあるなと思って、化粧裁ちしないまま綴じることを提案しました」
「うん」
「それからカバ男さんはこう言いました。コイツをテモワンでやってくんないかなあ、と」
「は、はい」
「ふふふ、テモワンよ。耳付きの手漉き紙で出来た本文に私が純金でテモワンを施すの。それも四つ折り判のこんなに大っきな本」
「あいや、ただそうやってみたらどうなるかなって」
遮るように作家は短く何か言い、謎めいた微笑で店内を睥睨し、微笑みのまま再び沈黙した。私は一番大事な言葉を聞き逃した。あとは物凄い圧が押し寄せ、ただじっと耐えるしかなかった。
私には彼女が「腕が鳴るわ」と言ったような気もしたが、ただの舌打ちだったかもしれない。それはこの店にいる誰にも分らなかっただろう。
アルレット・ル・ベイリィ著、貴田庄訳『ルリユール入門 革製本への手引き』。本書は1991年9月に沖積舎から発行されていた、工芸製本の技法に関する指南書である。B5判無線綴じ、本文単色刷り103頁。仮綴じにした本冊に対してマーブル紙を模した多色刷りのカバーと帯を巻き、その上からビニール製の保護ジャケットを掛けている。現代的な軽装本の装幀マナーからしてこれを屋上屋の愚と難じることも容易いが、本来の装幀デザインそのままに読まれ続けてほしいと願うブックデザイナーの気持ちは理解できる。
原題が『 initiation à la RELIURE D’ ART 』ということで、翻訳者の貴田氏は巻末「あとがき」でRELIUREに「工芸製本」という訳語を当てておられる。しかし現在では四角い漢字を並べた工芸製本などという熟語よりも、ルリユウルという軽やかで柔軟な語感のフランス語の方が愛書家の間には広まっている印象。なので、三十年前に敢えてこの邦題とした選択は賢明だったかと思うのである。
本文は「第1章―道具、基本材料、本の判形」「第2章―半革装本」「第3章―ブラデル装本」「第4章―総革装本」と大別され、前後に序跋などが簡単に附されている。非常に簡潔な記述でイラストもふんだんに盛り込まれているので、ルリユウルというアート分野について興味を抱いた人なら誰でも構えずに読みはじめられると思う。しかして読み終えた時、古書店でガラスケースの中に陳列されている総革装幀の工芸作品が値札のケタを読み直すほど高価なことの理由が、分かるようになっているだろう。
ルリユウル(ルリユール)というアートを一言で表すと、製本の一種といえばよいのだろうか。元となる本を解体して一枚一枚の頁用紙にまで戻し、そこからすべて中世の僧院で行われていた聖書手写本の製本と全く同じ手作業で、一冊の本にまで纏め上げてゆくのが普通である。本書はそのために必要な工具や道具の類、用紙などを逐一短い文章で要領よく説明している。また実際に半革やブラデルで作品を作ってゆくための技法についても、基本的な解説が述べられている。ルリユウルの技芸とは本来、非常にシンプルなものなのである。
とはいえ老練な匠が一言一言選びつつ精華のようにして著した本なので、これを読み終えたからといってすぐにあの革と紙の完璧なる魔術であるルリユウルが始められるワケではない。原題の通り本書の目的は飽くまでも「 Initiation(入門)」なのであって、いわば実作の道に踏み出すまでの座学のようなものなのである。本書を読んで私のように知的な好奇心を満足させるだけで踵を返すのもよいし、本気でルリユウル作家を目指し優れた師匠を探し当てるべく歩み始めるのもよいだろう。絶滅寸前、死に瀕したアート分野なので、往く道は困難を極めるに違いないが。
私の「四つ折り本」は、その後一年近くも経ってから完成し、戻された。
納本の日、包を開ける際に作家から、この本はフランス(だかイギリス)を往還したものであるというような説明を受けた。元々戦前の上海は仏蘭西租界で秘密制作したものを波濤を越えてわが国に密輸したという、伝説上の秘本なのである。それが今更フランスに送られようが驚いたことではない。ただ、何故そんなことをしたのか、尋ねそびれてしまったのが残念といえば残念か。私はいつも肝心な点を聞き洩らすのである。
そういえばコイツを依頼した日にも同じようなことがあったな、などと思いながら、オーガンジイというおぼろ昆布のお化けのような布地にくるまった『アラビアンナイツ』に目を落とす。沙漠地帯の夜を想わせる深い深いブルーに染め上げられた外箱を開く。
ルリユウル工芸作品『アラビアンナイツ』大蜥蜴皮装幀孤立本。爬虫類がまったく駄目な私のために刃を研ぎ澄ました作家の、達人の一撃である。今回、納本以来初めて稀覯書キャビネットから出して再見したのだが、やはり本体には触れることができなかった。
そうか。あの日彼女が最後に漏らしたのは、やっぱり「腕が鳴るわ」の方じゃなかったんだな。ははは
◆本エントリーで『ルリユール入門』の図書紹介パート以外の部分は架空の愛書ファンタジーですので、登場する稀覯書や個人は実際には存在しません。その点各位はくれぐれもご留意のうえ、オトナの対応をお願いいたします。
科学警察研究所編『創立30周年記念 科学警察研究所報告文献目録』書影。B5判平綴じ無外装に総単色活版印刷127頁の、ごく薄手なものである。
奥付によれば、本書は昭和53(1978)年の12月に発行されている。また編集兼発行人が同じ科学警察研究所であり、定価は表記されていない。このような図書の場合、刊行形態は私家版として分類されてゆくのだろう。及び当然ながら、本書は非売本だったかと察せられるのである。なかなか一般には出回らない珍しい基礎資料で、私にとって古い科研論文を探索するための「優秀なる羅針盤」となっている。
本書は文献目録という性格上、長期に亙って乱雑に繙読されることを予定して、仮表紙は厚手の樹脂でコートされている。にもかかわらず見えているのは殆ど手擦れのないサンプルで、献呈印などもなく発行されたまま古びている情況。恐らく関係先への私的な配布分だったのだろうと私は推察している。もう一冊副本として架蔵しているものにはここ十年ほどの間で市場に流れた形跡もあり、時代を考えれば旧蔵者の物故があったのかな、などとも思われる。いずれのサンプルも経年を感じさせない美本に近いコンディションといって差し支えないだろう。
巻頭、科学警察研究所長の井関尚栄氏による編纂趣意書「文献目録の発刊にあたって」が一頁ある。本書の内容はこの巻頭言によってすべて言い尽くされており、すなわち科学警察研究所が昭和二十三(1948)年に創立されてから三十年が経過した記念事業の一環として、内部資料の『科学警察研究所報告』に逐次掲載されてきた文献の総目次を刊行することになったというもの。次いで編纂経緯と凡例を記した「はしがき」から「目次」「文献目録」と来て最後は巻末の「索引」と、贅言を一切省いた実務一点張りの編集となっている。しかして文献目録としてはまったく卒なくも申し分ない構成。
実質的には1979年の書目であり、ここに掲げられている文献は最新のものでも今から四十年以上前に発表されている。ぱらぱら頁をめくれば「珍らしい異常死後硬直遅延例」「溺死考」「山窩の研究」「自殺者遺書の筆跡学的研究」「非行少年の人生態度」など尋常ならざるタイトルが犇き合っている。就中「国家地方警察本部職員の血液型に就て」とか「売淫の生態」「拳銃弾の活力について」など、最古の論考は七十有余年も遡れ、つまり大東亜敗戦直後のポツダム占領体制下で書かれたものまで認められるのである。人心の荒んだこの時代の犯罪について一体どんな事が書かれているのか、どの程度に赤裸々な表現がされているのか、興味津々頁を繰るたびに刺激的な文言が想像を膨らませるのであった。
目録らしく各タイトルには通しの文献番号と掲載巻次、掲載年の表記がある。掲載誌の書名は『科学警察研究所報告』と決まっているのだから、あとはこれを基に図書館の蔵書情報などをネットで検索し、収蔵先へと押し掛けてゆけばよい。Only Goなのである。あるいは、年齢的にまだ時間のある向きならば、古書検索サイトなどで気長に売り出しを待つのも一興かもしれない。但し日進月歩の科学捜査であるからして、現在これらの論考や研究の大半は最新の成果に上書きされているだろう。その意味では、科学的な価値はほとんど失われていると考えるべきである。
人狼跋扈する戦後の荒廃しきった社会の底で起きた犯罪を、当代一流の科学捜査官がモノクロームの視線で解析する。この半世紀以上も前のきわめて専門的な研究報告の数々。その時代を帯びた文献をまったく門外漢の私が追いかけながら現代の感覚で読む行為は、むしろ江戸川乱歩や夢野久作の古臭い猟奇小説を読み耽るような文学的陶酔の追求といっても過言ではないと思っている。面白い。病みつきになる。土台こうして文献検索を行うという過程からして強烈に変態的かつ偏執狂的で、すこぶる面白い。しかしこれほど面白い文学的な行動を、私は他人に勧めない。カバ男のせいで変態になってしまったと詰られても困るのである。
もう一冊見えているのは、本書「文献目録」より更に十年古い『研究論文集』。昭和43(1968)年12月、同じく科学警察研究所の発行である。目録同様B5判平(針)綴じ無外装の体裁で本文は写真・図表満載の総活版印刷、285頁。
表紙にあるように科学警察研究所の創立二十周年記念出版の一冊となり、従来別巻であった『科学警察研究所報告』『防犯少年編』『交通編』を糾合しての特別版とされたもの。こちらは文献目録ではないので、実際の研究報告が色々と掲載されている。例えば「銃器の威力と障害の程度について」などという論考では、銃弾に見立てたボールベアリングの鋼球を剃毛したウサギの尻めがけてボウガンで撃ち込み、ちょっと肉に食い込んだのアザが出来たの出来なかったのという実験報告が面白い。だが、大半の論考は同じ国語で書かれていながら余りにも専門的すぎて、私にはなんのことやらさっぱり理解できなかった。専門研究に首を突っ込む半可通とは、概してその程度のものかと思う。
GP企画センター編『テールフィン時代のアメリカ車』は、2001年7月にグランプリ出版より刊行されていた。見えているのは、初刊当時そのままで比較的良い容姿を保っている家蔵のサンプルである。
A5判無線仮綴じの製本に本文単色刷り143頁。同社のクルマ本としてはスタンダードな成り立ちで、本冊は束の小口三方を思い切りよく仮表紙ごとすっぱり化粧裁ちしている。これに多色刷りコート紙のカバーを巻いただけの、至極軽快な本である。目次頁の隅には例によって小さく「装丁 / 藍 多可思」のクレジットも認められた。
わが国のクルマ好きが抱く「アメ車」のイメージは、オイルクライシス(石油ショック)以前と以後とでかなり異なっているように思われる。石油ショックまでのアメ車は富と贅沢の象徴。あるいは、パワフルだが燃費極悪なエンジンを積んだ巨大なボディーをゴテゴテとメッキモールで飾り立てた、放漫そのものの外車。石油ショック以降はそれらの特徴を捨てて、サイズや経済性を少しずつ世界標準に近付けようとしながらも、あらゆる面で失敗した間抜けなクルマ。低品質かつ没個性化し、見掛け倒しで胡散臭い直線番長。少しカバ男の個人的な偏見が含まれているかもしれないが、大体そんなところだろうか。
本書の内容はそのオイルクライシス以前の時期を対象とした、アメリカ自動車史概論といってもよいかと思う。単色刷りながらも鮮明な写真版挿絵を多数引用し、文章を視覚で補っている。
タイトルページをめくって巻頭に無記名で「はじめに」が一頁。目次も一頁。豊穣豊満なアメリカ車を論じる本としてはずいぶん手狭に切り詰めているな、と些か面喰いながらも早速に本文が始まるのであった。
本文は「1.豊かさの象徴としてのアメリカ車」から筆を起こし、「3.ビッグスリー以外のメーカーの盛衰」「5.カースタイリング部門とデザインの確立」「6.ドリームカーとスポーツカーの登場」などなど八章に亙り、独自な進化を遂げたアメリカ車を特徴づけるさまざまな側面に光を当てている。
各章は独立しており、記述のスタンスは通史的である。著者表記がGP企画センター「編」となっていることから、恐らくは分業制で複数の執筆者が各章を分担しているのかと推察できる。そのためか、概ね戦前の自動車普及期~1960年代のアメリカ車最盛期という時間的な流れが章を改める毎に繰り返される傾向はある。
140頁の紙幅を八分割し、かつ大量の写真版を挿入しているため、章あたりの文章量はさして多くない。いきおいテーマの掘り下げ方もシリアスなものではない。アメ車マニアが読んだらさぞかし食い足りなかろうが、自分のような普通のクルマ好きが基礎知識を得る手掛かり程度にはなるのかな、などと思いながら読んだ憶えがある。
版元のグランプリ出版のホームページをチェックしたところ、現在までに本書は相当広範囲で改訂され、増補二訂版にまで進んでいるらしい記述があった。巻頭に写真口絵を盛り込んだだけではなく、本文の内容もよりテールフィン車へとフォーカスを強めるべく再検討と増補が行われたようだ。驚異的である。普通のクルマ本なのに工学書か辞典のように堂々と「増補」「二訂」の表記を掲げる、その矜持が実に驚きなのである。
自分の中でもう一度オイルクライシス以前のアメ車について時経列的に整理したくなった時、当時の私には本書の初版本だけしか選択の余地がなかった。もし私が今初めて『テールフィン時代のアメリカ車』という本の存在を知って読みたくなったとしたら、躊躇なくこの増補二訂版を選ぶだろう。最良の版は最新版。その出版の鉄則を、グランプリ出版という版元はよりにもよってクルマ本の世界で、人知れず具現化しているように思われるからだ。