かうよ飯

 

 「ルーロー飯」という食い物を、私は黙って食っていた。

 

それは、真っ白いラーメン丼ほどの器に盛った白飯に賽の目に切って茶色く煮込んだ豚バラ肉が山盛りに添えられている、丼飯だった。雑だが、私にはどこか生まれ故郷を思い出させる懐かしい佇まいと風味が好ましかった。

 ここは西五反田。私がいるのは古い雑居ビルに最近出来た中華料理店。特に根拠などないけど、店名に「蘭」の字がある店の老闆は福建や廣東など、南の地方出身者や客家が多いイメージが私の中にある。なので期待値も、高かった。

 

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 大箱の飲み屋でも居抜きしたのか矢鱈に高い天井と仄暗くだだっ広いフロア。客は私一人しかいない。冷蔵庫に載せた大型モニターからは共産中国の歌謡ライブがガンガン響き、店員は皆こちらに背を向けたままノリノリで見入っている。喋り合っている言葉は、みな硬い響きが北京語のようだった。

 時折私は口の中に指を突っ込み、真っ黒に煮しめられた小さな木片のような塊を摘まみ出してはテーブルの縁になすりつける。スプーンで飯を口に運び、モグモグ噛みながら米粒と涎でドロドロになった木片を摘まみ出してなすりつけ、それでも辛抱強く食い続ける。だがすぐに面倒になり、両切りのピースを喫う時のようにプ、プ、と直接床に吹き飛ばしはじめた。何故自分がそんなに行儀の悪い仕草をするのか不思議な感じもしたが、反面そうするのが自然なようにも思いつつ、響き渡るユーロなビートに合わせてプップッと吹き出し続ける。

ハエ叩きを片手に鋭い目付きで店内をパトロールしている老闆娘が気まぐれに近寄って来ては、ピッチャーがマウンドの砂を払うような仕草で溜まった木片を蹴散らしてゆく。

「姐姐、八角が歯に詰まるぜ」

「没有」

「没有?OK好」

老闆娘は何故か笑っている。その顔を見た私は、アルマジロが四頭乗ったチーズピザというのがどんな物なのかを脈絡もなく空想しはじめた。

 それはイタリアのどの地方の料理なのか?或は中南米あたりの混血イタリアンなのか。愛らしいメスチーソの娘が莞爾と笑いかけながら湯気の立つアルマジロピザにかぶりつき、満天の星の下、男と女の視線は絡み合って離れない。ソンブレロの男たちは甘く飄々と『グアンタナメラ』を歌い盛り上げてゆく。

しかし、空想のアルマジロはセンザンコウの姿をしているのであった。

 

 丼が半分ほど空になったあたりで段々と私は飽きてきた。食っても食っても肉は減らず、終わりが見えない苦しさを感じはじめる。もともと大して腹が減っていたワケでもなく、メニューも見ずに臺灣小吃の滷肉飯と思い込んで頼んだ「ルーロー飯」が大碗で出て来たため、余計に飽きた。味も私には塩辛過ぎる感じだった。

改めて丼の中を見る。

白飯と茶色い豚肉は、カレーライスのように分けて盛られていた。これに滷味(甘醤油煮込み)ではない真っ白な茹で玉子が乗り、彩のつもりか小さな青梗菜が一本丼のへりに寝そべっている。これがこの店の「ルーロー飯」なのであった。

「おかしいよな。臺灣の道端で食う滷肉飯はこの1/3、ヘタすりゃ1/4ぐらいのサイズじゃなかったかな。それにこんなに色々具なんか乗ってなかった。小吃では全てのトッピングが別メニューだから、滷肉飯だって単品で頼むかぎり白飯の茶碗に煮込んだ豚肉をサッと掛けただけだよ。真っ黄色なタクアンなんか一切れも乗ってれば儲けもん。そんな感じだったんだが・・・」

私はようやくセンザンコウの幻影を振り払い、最前からぼんやりと感じていた微妙な違和感の理由を解剖しはじめる。


ルーロー飯の豚肉は、八角や桂皮がこれだけ小さく壊れているのに肉が全然煮溶けていない所がちぐはぐな印象だった。それに薬膳臭さも弱すぎる。微かながら中華スパイス特有の複雑な香も感じたが、如何せん弱かった。そして味付けは甘みのない日本の醤油をそのまま使っていて、醤油(ジャンヨウ)はおろか老油も合わせていないためにコクや深みを感じられない。これに強い白酒を使っているのだろう、結局は煮込めば煮込むほど丸みのない塩辛さだけが際立ってくるのである。

そうだ、この滷肉飯そっくりな見た目とは全然かけ離れた一本調子な醤油味。これが違和感の原因に違いない。恐らくスパイス類は最初の仕込みで鍋に入れただけの出枯らしで、基本的にあとは肉と生醤油だけ足しているのだろう。おまけに頻繁に火を落とすから肉が煮溶ける暇もなく、滷肉になっていないんだ。

「してみるとこれは・・、オレが今食っているこの丼は、やっぱ臺灣名物の滷肉飯じゃないな。さしずめ出稼ぎの赤い中国人が日本の臺灣ブームに目を付けて外見だけパクッた、よくあるフェイク小吃に間違いない」

疑いの心が芽生える。なのに何故か懐かしい。妙な感覚だった。

 

 ピザ窯の中に置かれた四角いクラスト生地にほどよく焦げ目が付いて、たっぷりのチーズがその上で沸々と溶けている。そのチーズに膝まで漬けて立ち尽くす四頭のアルマジロ。ブルーチーズの強い香とパルミジャーノの軽快で甘やかな香が鼻を抜け、にわかに食欲が湧いてくる。粗びきの黒胡椒。窯から出して仕上げにアロマの弱いオリーブオイルを振り撒くと、その飛沫が四頭の焼けたアルマジロに飛び散って得も言われぬ芳香を立てる・・・。アルマジロのピザというのはこんな感じなのかな。しかし妙に立体的な構造のそれは、果たしてピザと呼べるものだろうか。そもそもアルマジロは食える動物なのか?

 執念深く蘇るアルマジロピザの圧力に私は再び悩まされるのである。

 

 三度丼を睨む。

すでに中身はあらかた食ってしまい、飯と豚肉は残り二口ほどになっていた。セルフサービスで置かれた麦茶をがぶ飲みし、囘囘族風な衣装に身を飾った中国人歌手の絶唱を眺め、食い、考える。フロアでは若い女店員の尻がビートに合わせてブルブルと上下していた。

「このルーロー飯とかいうフザケた食い物に似たものは・・・、さて控肉飯になるのかな。滷肉飯の具は脂の乗った五花肉をザクザクに細かく叩いてから鍋で煮込んだものなので、実際のところ肉というよりもミートソースのような外見だ。控肉飯は同じ五花肉をスライスした状態で煮込み、形のまま一切れか二切れを滷味として茶碗に乗せて出す丼飯。あのブルブルと震える肉を噛み切って、口の中一杯に溶けてヌルヌルと広がる豚の脂を呑み込んでゆく喉越しは、肉好きが求める食味の極北と言っても過言ではないだろう。硬く炊いた飯に染みた煮汁の甘辛さ、漢方薬のような香料と豚脂の絶妙な調和は、控肉飯ならではの楽しさだよな」

いかんいかん、こんなことばかり滑ったの転んだのと追慕していては、臺灣に行きたい病が再発してしまうではないか。最近は石垣島から宜蘭まで運んでくれる船もあるのだというし。

 しかし、今私が食っているルーロー飯が控肉飯でないのはたしかだ。肉はバラ肉だがスライスでもなくミンチにもしない中途半端な賽の目。しかも醤油辛い。滷肉飯と控肉飯は乗せる肉の姿が違うだけで基本は同じ構成なのだし、屋台で控肉飯を頼むと滷肉飯の上に控肉を乗せて出して来る場合もある。なので今食っているルーロー飯が滷肉飯でないように、控肉飯でもないとは即断できるのである。だが、それでも消えないこの懐かしさは、一体どこから来ているんだ?

はるか昔、私はこの丼飯をどこかで食ったことがある。あれは横濱旧市街の花園橋界隈か?いや加賀町警察署の辺り、或いは南京町のどこかの店だったか?違う。あれは・・・、あれは横浜駅の西口だ。五番街を抜けて岡野町交差点に向かう途中、中国人の老夫婦がやっていた料理店『鄭記』で、私はこのルーロー飯に酷似した飯を食ったことがある。

そうだ。1980年代初頭、私は一時狂ったように毎日あの丼飯を食い続けていたではないか。あの「かうよふぁん」を。

 

鄭記飯店は当時南京町の小店でもほとんど菜單に載せることのなかった意麺や伊府麺を使った料理が普通に食べられる店だった。爺爺が作る焼売は大ぶりの円筒形で、皮を余らせず一杯に肉餡を詰め込んだタイプ。餃子は出さず、常に数羽の鶏を店の裏で肥育していた。ヌーベルシノワなんぞはどこ吹く風、古臭く重く厚みのある質実剛健な料理ばかりを作っていた。

 その鄭記で伊府麺料理にも飽きはじめた頃、壁に貼られた「扣肉飯」という手書きの札が目に入った。指差しながら

「ばあちゃん、あれ何?コウ・・ニクハン?」

「カウヨオファン」

「は?」

「カウヨオ、ファン」

「かうよはん」

「カウ、ヨオ、ファン」

「かうよふぁん」

「カウヨオファン。うまいよ」

なんだ喋れるじゃん日本語。

 

 鄭記が出して来た扣肉飯は、縁のある浅い中皿に白飯を盛り十三香や八角などのスパイスでキッチリ煮込んだ豚バラ肉を合わせた丼飯だった。バラ肉はほどよく脂身を除いた日本人好みのバランスで、薬膳スパイスのカオスである煮汁はしっかりと切られ、別に作った醤油ベースのとろみ餡やザク切りした青梗菜と手早く合わせてから盛り付けられていた。この「うま煮」と呼ばれる餡の醤油風味が、本格的な造りの扣肉を日本の町中華メシっぽい軽快さに仕上げる決め手になっている。そしてここが肝心なのだが、鄭記の扣肉飯は滷肉飯や控肉飯のようなぶっかけ飯ではなく白飯と扣肉が分かれて整然と盛り付けられていたのである。

ぶっかけ飯なのか、肉と飯が分けて盛り付けられているのか。丼に彩の青梗菜を加えているか否か。煮汁はそのままか、うま煮の餡なのか。そんな食ってしまえば消えてなくなる些細な違いのいくつかを手繰れていたら、あの頃もしかしたらもっと色々なことが分かったのかもしれない。人は自分が食ったのと同じ物を作ってまた人に食わせ、料理を繋いでゆくのである。二十代早々のガキだった私が一碗の扣肉飯に着目し、慎重にその構成や味付けを吟味検分することができていれば、あの老夫婦とは違った形でのコミュニケーションがあったのではないか。もっと多くの面白い情報が得られていたのではないか。ただ美味い美味いと豚のように喰らうばかりではなく、私はそうした目配りの下にもっと分析的な食い方をすべきではなかったのか。ここまで考えてきた時、そう当時の自分を詰ってやりたい気分になっていた。

「そうかといって今更何十年も前の「かうよ飯」を思い出すにも限界があるさ。こうしてとつおいつ思い出していても、正直鄭記の扣肉飯が本当はどうだったのか、細部の記憶がほとんど蘇って来ないのがもどかしいよ」

せめて次にこんがりとクリスピーに焼き上がったアルマジロの甲羅を賞味する時、若き日の失敗を思い出そう。疑問を抱き、眼や鼻や耳でも料理を検分することを忘れないようにしよう。

 そこまで銘記し、我に返った私はルーロー飯の丼を睨みつけ、最後まで残っていた冷たい茹で玉子と杏仁豆腐を纏めて口の中に放り込んで、席を立つのだった。

 

「お会計ありがとございます

「はいよ。キミはどっから来てるんだい?」

「え、ワラビ」

「おー蕨ったあ埼玉か。じゃなくてどこの国かって」

「言葉あまり分からない」

「中国人なんだよな?」

「はい中国」

「臺灣?大陸の中国?」

「中国です」

「そうか。じゃあれかな、やっぱ廣東とか福建とか南の方の」

「内モンゴル」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日比谷線

 

 少し早めの昼飯を恵比寿で。小籠湯包と蛋炒飯。

 見えているのはJR線・日比谷線恵比寿駅西口の雑踏。ガサツで、鶴見線の駅かと紛うほど色彩に乏しいのが見て取れる。渋谷の隣町なのに恵比寿は昔からびっくりするほど華のない街なのである。

 

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下の交差点から奥へ続く小道を100mほど進んだ所のシケたラーメン屋『超然』は、しかし玉子炒飯だけは腰が抜けるほどに美味だった。今もあるだろうか。炒飯を頼むとかったるそうにスポーツ新聞を畳んでやる気ナシナシで鍋を振っていたあのオッサン、元気かな。

 


 

 霞が関の合同庁舎前。人を送って不図振り返ってパチリんこ。見切れているが、右手には日比谷公園の新綠が広がっている。

 昼飯帰りにブラブラと信号を渡って来る面々はみな、シャツ姿で袖まくり。まるで初夏のような陽気だったっけ。

 

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 この辺には美味いものがないので、万一腹が減ってしまったらあの広い日比谷公園を突っ切って自力で有楽町まで行けないと、餓死することになる。あいやコンビニはある。コンビニはあるのだが・・・。

なのでご覧の通り「有楽町行き専用タクシー乗り場(嘘)」が設けてあるのだった。

 


 

 ふうふう。御徒町まで来てパンダカプチーノの店でようやく一服。朝羽織って出たスプリングコートは、もはやお荷物。といってそこいらに捨ててゆくワケにもいかないし、困ったものである。


 え、パンダカプチーノ飲んでないじゃん?あ、ふうーん。

 

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 水曜日のアメ横は休みの店が多くてつまらない。

しかし、歩きやすかった()


 さて。ふんじゃ帰ってブログの続きでもぶっ書くか。

 

 

 

 

 

 

 

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