Gods of Taiwan

 

 Neal Donnelly(唐能理)『 Gods of Taiwan : A Collector’s account 』書影。20065月に臺北の出版社である藝術家出版社より発行されていた。中国語の書名は『台灣的神像 一名美國文物収藏家研究紀事』と表記されている。A4判糸綴じ無外装、本文総アート紙多色刷り239頁。

 美術工芸品の図録としてはわが国の水準を上回る丁寧な製本が施され、そのせいか意外なほどに重い。本文は大半が英文で、わずかに巻頭言と図版キャプションの一部で翻訳に繁体中国文が用いられているにすぎない。

 

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 本書は臺灣の道觀(道教寺院)や佛教寺院に祀られていた神像の、解説付き図録である。掲載されている神像の造立年代は、著者により十九世紀中葉から1940年代の臺灣総督府時代中葉頃にかけてと鑑識されている。わが国の風とは異なり臺灣では古びたり汚れた神佛像は躊躇なく荘厳し直すし、高名な佛師に面相など彫り直してもらうことさえ珍しくはない。信仰の対象であることをも考え併せれば、この年代にかかる道教神像がオリジナル状態のまま今世紀まで伝世していたのは相当に幸運だったと言ってよかろう。しかして臺灣当地に於いても道教諸神の造形実例に関する出版は稀なようで、本書のように鮮明な画像を羅列しながらその内容を詳細に解説するような資料は極めて珍しい。なので同種の書籍を国内で探すのも、なかなか思うに任せぬもどかしさは付き纏っている。

 本書に掲載されている神像は、著者のDonnelly氏が臺灣在住であった1966年から1981年の期間に蒐集した、個人コレクション。このコレクションはみな佛師や佛具行(仏具店)の工房に著者自ら足を運び、佳き出会いの裡に落掌していったものばかりとされている。これらはすべてアメリカ(美國)に運ばれワシントンD.C.近郊の著者宅にて管理されていたのだが、その存在が当地の臺灣人コミュニティーに少しずつ認知され、20035月に開催された「古玩文物展」に請われて数柱を出品したことから広く知れ渡ることとなったらしい。その後国立スミソニアン博物館による後援などを経、2006年の本書に結実した流れと思われる。

 

 私は英語も中国語も解さないので、本書を手に入れてから今までの約一箇月で『デイリー・コンサイス』を片手になんとか理解できたのが、述べた巻頭言のあたりまでなのである。なので、今回のエントリーで語れることはこれ以上ない。

向後は時間を見て本文を読み進むつもりでもあるが、個々の神格についてはこれまでにも窪徳忠氏の『道教の神々』など数冊の邦文指南書を読み耽ってきたので、この上の強い興味も湧いて来ない。興味があるのは、この米人Donnelly氏夫妻が如何にしてこれほどのコレクションを達成できたのか。道佛混然とした宗教シンクレティズムの真っ只中、あの信仰深い臺灣人がどんな存念で大切な神像の数々をこの異邦人の手に委ねていったのか。そのドキュメント部分である。

やはり同じことを考える輩はいるもので、2020年にもなってノコノコ眼光娘娘(がんこうにゃんにゃん)の一木造神像を探しに渡臺していた私としては、アメリカ人なんかに半世紀以上も先を越されていたのかと思うと正直くやしいのである。しかもコロナ騒ぎが完全にお開きになる目途も立たぬこの時局、あたら10年もののパスポートを夜泣きさせ続けざるを得ない時間の無駄には、まったくもって切歯扼腕。

 

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 毎度おなじみヒグマの「おぢさん」。お手上げ萬歳の図。



 

カバ男のブログ旧エントリー:『六福客桟』 









 

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通人探訪

 

 コヨーテという色のECWCS(エクワックス)パーカに、その裏地と色を合わせたヘリコンテックス製ブリーフバッグ。目覚まし時計に飛び起きて8時前にあたふたと電車に飛び乗り、乗り換えの巨大ターミナル駅まで来てちょっと一服の図なのである。

 ここまで概ね一時間。北を目指し、見慣れない車窓の風景に少しずつ目が覚めてきた頃合いだったかな。

 

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 時々思い出したように銃関係の本やエピソードをブログで紹介している。なので一部のマニアは私が銃に詳しい人物と思い込んでいるようなのだが、本当は全然詳しくなくて、手持ちの知識を常に好奇心が上回る情況を覆すことができない。

それで、分からないことが出来すれば当然書店や図書館で資料を探す。資料がなければネットで情報を集める。書かれたものを読んで納得できればそれでよいのだが、銃という特殊なメカニズムは文字による表現だけで作動原理は分かっても、実際の動きを完全に理解できない場合も少なくない。

ほかにも器物としての寸度や重量バランスといった感覚的な情報など、むしろ言語に置き換えられない知見の方が夥しく、段々もう分からないことだらけになってしまう。そうして煮詰まり鬱々となりそうになると、私は斯界の通人に教えを乞うため、こんな風に早起きして出かけてゆくのである。

一昨年の真夏もそうだったけど、どうして人に教えを乞う時に必ず私は北行きの列車に飛び乗るのか。てかなんで物知りの人たちはみな北の方にお住まいなのか(笑)。んへへ。

 

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 押し掛けられる通の方にはまったく同情を禁じ得ないのだが、まさしく余人を以て代えられず、ひとつよろしくお願いしたいのであった。

 さて、熱いコーヒー飲み干して、行くか。んへへへへへ。

 


 

 カバ男のブログ旧エントリー:『To be, or not to be continued』



 

 





 

 

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日本自動車史年表

 

 『日本自動車史年表』。編纂するGP企画センターと版元グランプリ出版の定番な組み合わせで、2006年9月に発行されている。

 A5判無線仮綴じ、本文単色刷り239頁。多色刷りカバー掛け。文中には極小ながら鮮明な写真版が多数掲載され、内容の理解を大いに助けられた

 

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 明治三十一(1898)年の年明け早々、まだ辛うじて外国人居留地であった築地のホテル・メトロポリタンから、寒風を衝いて一台の奇妙な馬車が走り出した。馬車とはいえ車の前には馬がおらず、馭者風なカイゼル髭の白人が一人で目の前の輪っぱを回したりレバーを押し引きしながら操作して、車だけが勝手に進んでゆく様子。その光景の奇怪さやけたたましい爆音、通り過ぎたあとに漂う胸の悪くなるような臭気に、文明開化は慣れっこになっていた当時の東京市民もただ目を丸くして遠巻きに見物するばかりである。みるみる膨れ上がる人だかりを横目に威風堂々と馬なし馬車を走らせるその白人の表情には、少なからぬ自慢と高揚の気分が見て取れた。

 車が近所を一回りして戻って来たところで、噂を聞いて駆け付けた東京朝日新聞の記者が人の群れから進み出る。点火時期を調整していたカイゼル髭の傍らで所在なげに佇む通辞(通訳)の男に声を掛ける。

「もうし、これの名前はなんというのでしょう。ちょいっとあの外人さんに聞いちゃもらえませんか?」

通辞の言葉に白人がうっそりと一言

Automobile(オトモビル)」

「記者さん、これはフランスの機械でオトモビルと言うそうです。この外人さん、いえテブネさんはこのオトモビルを日本で売り捌きなさりたいそうですよ」

「ははあ、オトモビル。オトモビル?・・ああ御トモビルね、なるほど御丁寧に合点がいきました。ありがとう」

こうして有史以来初めてわが国の国土を疾走した第一号自動車は、その名を「佛國に於て馬車の代りに発明されしトモビル」と誤って全国に伝えられてしまったのである。馬のことを御馬(おんま)、手紙を御文(おふみ)、漬物でさえ御香々(おこうこ)などと呼んでいた当時の江戸言葉。あながちこの新聞記者氏を江戸っ子の早とちりと難じることもできなかろう。

 

 本書『日本自動車史年表』は、自動車に関する主に国内の動静を年単位で纏めた考証資料である。自動車メーカー社史、各団体紀要など大量の既存史料を基に要領よく簡潔にまとめてあり、最新の決定版資料としてすこぶる使い勝手がよかった。

本扉をめくって巻頭に(GP企画センターの領袖と思しき)桂木洋二氏の「はじめに」が一頁あり、目次頁の片隅に小さく「装幀:藍 多可思」のクレジット。目次のほか本文は最終頁まで全部が年表に費やされている。時経列は1898(明治31)年の自動車初走行に始まり、最終2006(平成18)年8月とぎりぎり出版の前月までトピックを拾っている執念には感心した。さすがGP企画センター、なのである。

 記述に関しては「はじめに」にもあるように、資料の援用を主幹として極力曖昧さや風聞伝聞を排除しながらも、可能なかぎり多くの言及を採録することに配慮しているようだ。なので同じトピックが同年の違う月次で重複したり、複数の年次で顔を出したりしている。これは当然原資料の記述を重んじた結果であり、裏返せば執筆時点で確定史実と未確定との混在があることを言外に物語っているワケで、その点を読み込むのも面白かった。また極初期の記述では人・企業・車種の変遷が早く大変に錯綜しているが、見方を変えて特定の企業や個人を軸に読み進むと思わぬドラマが読み取れることもあり、その点でも飽きなかった。

 年表は事実を縷々積み重ねてゆきさえすれば、好きな読者は自ずと書かれている事実に没入して楽しめるもの。前段で私が書いたような与太話を捏造してまで読者を無理に面白がらせる必要はないのである。

 

 詰め込み受験世代の歴史アレルギーなので、社会に出てからは年表などというものにまったく無縁で過ごしてきた私である。しかし本書、殊に客観的な原資料の亡失が著しい明治から大東亜敗戦までの時期を繰り返し読んでいて、楽しんでいる自分に気付けたのは意外な発見だった。良く整えられた年表の一冊を読むことで、パブリシティーまみれの提灯クルマ評論を何冊読破するよりもはるかにエキサイティングで深い満足感が得られることを、この『日本自動車史年表』に教えられた次第なのである。

 惜しむらくは本書、グランプリ出版の定型であるA5の判型と無線仮綴じで出されてしまったことであろうか。A5判それ自体は知識の普及に適した軽快な判型ではあるのだが、旧エントリー『日本漁船発動機史』で見たように、この程度まで内容が整備された濃密な年表本がカジュアルである必然性は乏しいのである。

 今からでも遅くはない。仮綴じ製本でよいからB5判本糸綴じの新訂版などを版元は検討してはどうか。その際は折り込みで相関フローチャートなどが附録されていれば嬉しいかもしれない。

 堅牢製本の番号入り特装本なども作ってもらえれば、尚嬉しいが。


 

 

 

 

 

 

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砥石を研ぐ

 

 白い大きな方は天然石の砥石である。たしかナントカ山だか大山ナントカと云った筈だが、生憎石(鉱山)の名前は失念してしまった。

 

 黒いのは金剛砂(こんごうしゃ)という硬い物質の粉を固めた人造砥石。コイツもメーカー名は忘れたが、いずれエビか達磨かキングか何か。工業用資材のブランド名は独特のセンスがあって面白い。

最近の私は暇を見てはこの金剛砂で、熱心にナントカ山を削っているのである。

 

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 このナントカ山は数年前のある深夜、帰りに乗ったタクシーの中で、水揚げ金をボート(競艇)でスッたと泣き事を言うドライバー氏から買い取ったもの。値段はホテルのビジネスランチ一回分ぐらいかな。

 天然石の砥石は五十年ほど前から少しずつ鉱山資源の枯渇が始まり、今では驚くべき高騰を続けている。といってもそれは高級な仕上げ用砥石の世界であり、こちらは所詮白石の中砥(刃こぼれしていない刃物の研ぎはじめ用)なので至ってお値頃。渋谷目黒の玄人受けする道具屋なら縁の下にでもごろごろ転がしている雑な砥石かと思う。しかも見えているコイツは、細いとはいえよりにもよってど真ん中に深々とクラックが入り、そのせいか前所有者もロストボール感覚でノーメンテ。買い取った当初は砥面が湯タンポのように大きく波打ってまったく使い物にならなかったのである。私も呆れてキッチンの地袋に投げ込んだまま忘れていた。

 

 思い立って熱心に砥石研ぎを繰り返し、最近、波打っていた砥面にようやく平らな部分が現れるところまで漕ぎ着けている。ステンレス包丁の試し研ぎでは、すでにクラックは全く障害にならなくなっていた。

今後は更に削り続け、斑状に現れた平面部分を繋ぎ合わせ、最終的には砥面全体が一つの平面になって終わる予定である。終わるというか、そこから初めて砥石としての使用が始まる。そして使うたびに金剛砥での研ぎもセットで行い、平面の維持に努めることになる。実に面倒。だが砥石とは、そうやって使うものなのである。 

 電動シャープナーでピーっとやっつけちまえば楽なのは重々承知。しかし研ぎ澄ました包丁の切れ味を知ってしまったからには、その包丁で切った食材の舌触りに慣れてしまったからには、もう元には戻れないのである。

 

 そうして「大将、包丁研いでなくね?」と料理屋で爽やかに難癖つけられる、やらしいジジイに私はなりたい。

 


 

 








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