魚と階段

 

 サバの素焼きに固く絞った粗磨りの大根おろしを添えて一皿。香の物は手ちぎりのキャベツにほんのりと酢の香。アラ汁と飯。

唐揚げは余計かなとも思ったが、仕事が丁寧で、悪くはなかった。

 

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 東京では意地でも魚を食わないこの私、何故かこの日はサバなどを食う羽目に。この店、魚以外には「ごろごろ野菜のポークカレーセット」ひと品しかなく、実質的には魚料理強制の店なのであった。

 震災前年の真冬、仙台の飲み屋で食った金華鯖の素焼きは異常に美味かった。その美味さに賭けて食ってみた東京の、氏素性も知れぬサバ。まあ食えたからヨシとしようか。


 しっかし・・・。

帰り道の会話、マスクの中が魚臭い息で倒れそうになる私であった。

 

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 ふらふらと人につられてポリシー曲げるのは、最も危険が危ないね。 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩メシ

 

 私はオニグルミをひと噛みで粉々に砕く歯を持っている。

 

これは、ほんの数分前まで透明アクリル板の向こう側でピンと突っ張らかっていた、大正海老の丸揚げ。


今は空ろな殻一枚がぽつ然と、こちらの皿に置かれているのである。

 

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 これを残したのは料理人へのメッセージ


 君たちの安息は、すでに奪われた。

 さあ、早速に次の皿を繰り出して来給え!!



 

 

 

 

 

 

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世界拳銃百科

 

 亜坂卓巳(編)『世界拳銃百科』は、第一期ガンブームの爆発的な拡張期であった昭和三十六(1961)年五月に、久保書店より刊行されていた。内容は言うまでもなく内外のけん銃に関する写真図録。A5判本綴じ、カルトン角背上製本。

本文は総アート紙に総活版刷りで150頁。見えている通り、これに実質的な著者である亜坂氏よりも大きな文字で「大藪春彦監修」と記されたカバーが付いている。

 

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 タイトル頁をめくって大藪春彦氏の巻頭言2頁があり、以下目次、本文と続く構成にこれといったヒネりは見られない。大藪氏のまえがきにしても、タイトルすら与えられぬ至極当たり障りのない文章で、色々期待しているとあっさりと肩すかしを食う。版元としては『野獣死すべし』で衝撃の文壇デビューを飾った同氏の名前が欲しかったのだろうが、所詮は足元を見て監修料分のお付き合いといった程度のお寒い文字稿。初手から甚だ頼りない『世界拳銃百科』の始まりなのであった。


 内容は概観的なもので、けん銃発達の歴史や各作動方式の得失などが大変あやふや且つ錯乱した表現で縷々述べられているという手強い代物。例えば自動式けん銃にはブローバック式と銃身後退式があって銃身後退式はみな銃身が露出しているとか、ワルサーはダブルアクションのワルサー08を改良してルガーP08を生み出したとか云々。そのメカニズムを用いてモーゼルでも小型けん銃を、侃々。なかなか読むのに骨が折れるのである。

 しかも文中挿絵として数多くの実銃写真や透視図が盛り込まれているのは良いとして、それらは半分写真半分絵というほどに改変し尽くされた奇怪な画像。農家の鴨居に掛けられた古い肖像写真や遺影などを連想していただくと分かり易いかもしれない。文中に右サイドプレートに辛うじて四つのスクリューヘッドらしきものが描かれている「コルト・リボルバー」なるぼやけた挿絵などがあれば、それを見ながらなるほどこれはけん銃の画像なのだな、とイメージを膨らませて読み進むありさま。手強いを通り越して最早一級品の大難物、なにしろ昭和三十六年の本なのである。

当時は写真判をそのまま書籍に載せるような「手抜き」はせず、必ず手作業で明暗や輪郭を強調修正したものを、よせばいいのに切り抜いてから再製版して掲載するのが当たり前であった。がそもそもけん銃のケの字も分からないような画工がピンボケの小さな元写真の「修正」に腕を振るうわけで、スライドとフレームが一体となった不気味な自動けん銃の画像などが平気で出来する。そこに「ニュー・ベレッタ(スペイン製)」とか「ハイウェー・パトロールマン」などとキャプションが振られてくるものだから、おちおち気楽に読み流してなどはいられない。文節毎、挿絵毎にこれは何を表現しているのだろうかと一々忖度してゆかないことには、到底正しい理解は覚束ないのである。その点では、本書は正に忍耐という名のエンスージアスムがキビシく問われる一冊なのかもしれなかった。

 内容・挿絵ともに相当な混沌が剥き出しとなった本書には、それでも色々と面白い発見はある。ラーマ380オートに着目し、推し推しなこと。ブローニングM1910/22がすでに「ブローニング380」と表記されていること。S&W M44オートのフルエングレーブ・プレゼンテーションモデルが掲載されていること。サベージ101シングルショットが掲載されていること。などなど。まあ微笑ましいといえば微笑ましい。

 

 今回初めて知ったのだが、版元の久保書店というのは「あまとりあ社」と同体で、今も盛業されているらしい。高橋鐵氏の『あるす・あまとりあ』といえば、知る人ぞ知るアプレゲール派の伝説的な奇書。Gun本と性科学文献(と、最近ではロリコン漫画)の奇妙な取り合わせには、戦後カストリ雑誌時代の臭がぷんぷんと聞こえて来るようだ。すなわち本書『世界拳銃百科』は、宿命的に曖昧糢糊とした文章と肝心な所をぼやかした画像をセットで売り物とする版元が、同じ臭いを纏わせたまま世に放ったものなのであった。なるほどそれで納得。

 しかし本書に関する最大の発見がこれかと言ったら、編者亜坂卓巳氏の労に報いることには決してならない筈である。だが正直、この程度。


『あるす・あまとりあ』と高橋鐵氏。当ブログで今後採り上げることも、・・まあ、なかろうな。

 

 

 



 

 

 

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ダンディズム 栄光と悲惨

 

 生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』は、当時神戸にあった高踏派出版局の奢灞都館によって一九七五年十一月に初めて世に問われた、エッセイ集。

 A5判カルトン角背上製本。本文219頁、カバー付き。上製本とは言い条、その本表紙は二色の紙を背継ぎで用いたうえその接ぎ目に金線を引き、背表紙には「ダンディズム 生田耕作」とのみ刷られた別紙題箋を象嵌風に貼り込んでいる凝りよう。コブデン・サンダスン式に、まったく簡素なデザインながらも意を尽くし手間を惜しまない成り立ちが、文化的に荒廃し尽くした現代の目には眩しい。

 

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 見えているのは同じ『ダンディズム』が三冊。下積みの二冊は新刊読了当時に私が自ら奉書紙を裂いて慎重に包んだ保管用、書影は今回Georgeにプレゼントするためその包を解いた一冊である。こんな事でもなければ再びこの本を開いて文書準備することもなく、この連中も書架の奥で惰眠を貪るがままであったはず。本はやはり人に読まれなくては、働かせなくては生きないのである。

 

 本書には述べた通りサンダスン風な装幀美学に基づいて、恐らくは著者の生田氏ご自身によって徹頭徹尾整合された、アングロサクスン的美意識が反映されている。

 用いられている紙はおよそ四種類。本文用紙として薄口のレンケルレイド風洋紙(挿絵にアート紙)、外装と見返し及びカバーにサックスブルーの吸取紙風、背は局紙風白紙。これにか細い金線一本を引いただけでここまで清潔かつ超然としたアピアランスを実現していることに、装幀計画者の鋭いセンスが窺えるのである。その発想の根源を想像するに、戦前よりケルムスコット・プレスとアーツ・アンド・クラフツ運動の熱烈な信奉者であった壽岳文章氏の強い影響を見ることは難しくない。京都に残る工芸文化の底流、といってもよいかと思う。本文のレイアウトもまったくこのセオリーに則っており、逸脱はない。

 本書の奥付には花文字で“Dandyism”とだけ書名が記されている。サブタイトル風な「栄光と悲惨」の文字は本扉と外装附加物であるカバーにしか認められず、頭の中で混乱が生じていた。私としてはこの陳腐で安っぽい文言はタイトルから排除したかったのが本音である。しかし本扉が折丁に含まれていること、「後記」の中で著者自ら本書をサブタイトルで呼んでいることを根拠に、当ブログでは書名としてここまでを採った。

頁番号は本扉の次から始まる通しノンブルで、中ほどにあるアート紙挿絵も本文として数えているので、本書をルリユウルの練習台に使う場合は注意が必要である。

 

 本書には、始祖であり神格化された十九世紀の英国人ジョージ・ブライアン・ブランメルに関する評伝四篇を中核とした、ダンディズムに関する論考が合計六篇収められている。各篇のタイトルは「ボー・ブランメル」「落日の栄光」「ブランメル神話」「冷たい偶像」「ウィリアム・ベックフォード小伝」「ダンディズムの系譜」。これに「後記」が続く。

 他の著者によるダンディズムに関する本は、同時代では牧神社『ボウ・ブランメル』、私家版『アルフレッド・ドルセー小伝』などを数えることができる。いずれも現在では忘れられてしまった本ばかりであるが、本書『ダンディズム』だけは生田氏の高名もあり、阪神淡路大震災を契機に版元が京都へ移転したのちもたびたび再版された模様。

また今回採り上げた本書は普通版であり、別途本文用紙からして異なる特装本が五十部だけ刊行されていることは贅言しておきたい。こちらは版元最初期の特装本でもあり、事情に通じた好事家の間を変遷するだけで、ほとんど市場には現れない。

 

 古いエントリー『堅信者の告白 或は内臓脂肪の服飾美学に及ぼす影響に就いて』でも述べた通り、私にとってダンディズムというのは一種の街頭演劇かマジックショー。その時その場にその人物がいなければ成立せず、ダンディが退場してしまえばそんなもの魔法のように消え失せ何も残らない現象、というほどの認識でいる。それはある種の伝道会と言い換えてもよいかもしれず、その意味に於いてダンディズムには栄光も悲惨も存在しないと言えよう。

 神と崇められたダンディに就いて考えを巡らすことは、とても知的で面白いことではある。しかしダンディの行状を書物で読み耽り振舞いを真似るなどという行動はいかにもダンディズムに反する行いであり、不粋。飽くまでも書物に書かれているのはジョージ=ブランメルの、バルベー・ドゥルヴィイーの、アルフレッド・ドルセーの、執筆者のダンディズムであって、自分にとってのダンディズムは自分自身で決めてゆかねばならない。そうしてこその「イズム」なのである。

 

 本書は後年中公文庫に加えられたということで、図書館でも収蔵しているやもしれない。興味が湧いたら足を向けられることをお勧めしておこう。尤も、世間無用のカバ男が勧める本なので、内容もまた世間無用であることは真実請け合える。

 

 









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カバ男のブログ 課外活動

 

 戦前の会計帳簿が四冊。すべて銀座伊東屋と文祥堂製で、未記帳。

製本所を出て以来丸々八十年、戦中戦後を通してほとんど開かれることなく眠っていたこの大古物が、私の手に落ちた。

 

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 書籍なら奥付から古さを特定できるのだが、文房具の一種である会計帳簿に製造記号などなく、時代を窺うことは難しい。なんの説明もなくぽんと目の前に置かれた帳簿の年代は、普通なら頁に残された勘定記録の日付を基に推し量るほかないのである。

 しかし見えているこれらは、理由は分からぬが一度も記帳されたことのなかった未使用品。いくら頁を繰っても日付はおろかインクの飛沫ひとつ見出すことはできない。

四冊の内『設備勘定内譯帳』の背表紙に、「自昭和十六年六月一日/至昭和十六年十一月三十日」という日付が純銀で箔押しされている。戦前の洋式帳簿で上手の品では、丁寧に鏝で艶出しした本革の背表紙に金銀箔で企業・事業所名、使用期間(=会計期間)、勘定科目などを刻銘する場合があった。ここからこの『設備勘定内譯帳』が概ね昭和十六(1941)年五月中には制作されていたものであると推定。ほかの三冊もすべて同じ会社向けのものであることから、恐らくは同じ時期の制作と考えてよいかと思われた。

勘案するにこれらの帳簿は、正に戦前の洋式帳簿製本黄金時代に作られた中~高級品だったのである。

 

 四月初め頃にこれらを入手して以来、少しずつ修繕を進めている。

普通の書籍が人の手で撫で摩られ(つまり人間から脂気や水分を吸い取り)ながら過ごす八十年など大した時間ではないが、蔵の茶箱などに密閉され昏睡していた帳簿たちにとっては、如何にも長かったことであろう。包を解いて手に執れば表紙の雲形や背角革など空気に触れた部分は見る見る酸化し、薄皮一枚ハラハラと剥がれてくる。

落掌した当座は艶々と美しい肌だった革背表紙なども、短時間で干からびてタンパク繊維が崩壊。指でそっと撫でただけで古綿のようにももけ崩れはじめる。正直これには参った。

製本所で掛けられた保護用のハトロン紙すら外されることなく八十年。昏々と眠りつづけた遺物を不用意にエアコンがんがん日光燦燦の空気中に持ち出してしまったことも、急速に劣化を進めてしまった原因かもしれない。ともかく今は非常に危険が危ない情況なのである。


当座は材料や表面の劣化程度を観察しながら、要所に微量の保革ペーストと水分を補って様子見の段階。並行して必要な道具などを作ったり集めたり。兎に角この行かず後家どもを、責任取ってなんとか普通に取り扱える程度にまでは修復しなくてはならないのである。古い本の修理など話として知ってはいたが、まさか自分の手で実際にやる羽目になろうとは。

 必要な知識も手技も圧倒的に不足していて気が焦るばかりの現状だ。果たしてどこまでやれるか自信がない。

 『カバ男のブログ』の裏ではこんな事もやっている。ははは

 

 

はてなブログ版カバ男のブログ「後家帳簿」の巻

 

 

 

 

 

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お知らせ

 

 八十年前の会計帳簿、製本出来のまま一度も使われなかった大後家ども四冊について、明日の昼頃に文書投入する運びとなった。

 コンディションがまちまちで色々と補修作業もあり、ブログのネタには適当だが、さて本でもないしどうしようかと迷っていたのが正直なところ。

 だが、古書の世界からも古物の世界からも余計物扱いされるこの会計帳簿という手工品、しかも戦前黄金期の作品。魅力の一端をお知らせしておくのも無駄ではなかろうと思い直してエントリーを決心した次第。

 先週には書き上げていたのだが、迷いが公開を遅らせてしまった。

 

 今回は珍しくサブブログである「はてなブログ」でも、同じテーマで別稿を書いて文書投入してみた。明朝には読めるだろう。あちらは本好きっぽい人の閲覧があるようなので、やや見方を変えた表現を行っている。

テキストリンクを貼っておいたので、クリックすればエロサイト、じゃなかった「はてな」版が読めるはず。あでも、クリックは自己責任で()

 

 

『薔薇の名前』 in Youtube

 

 

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