日本漁船発動機史

 

 社団法人日本舶用発動機会編『日本漁船発動機史』完本の書影を公開する。

 船とか漁船とかからきし門外漢のカバ男ではあるが、一介のエンジン好きとして本書に関するエントリーを投入することはブログ開設当初の念願でもあり、実現できたことに非常な嬉しさを感じている。

 こと漁船にとどまらず、舶用発動機とその開発発展に関する論文や紀要論考文などで頻繁に引用剽窃される原資料として、この『日本漁船発動機史』は書名のみが広範に知られる一種の稀覯書である。昭和341959)年7月発行、非売品。B5判丸背クロース装幀で専用の挿入箱入り。背表紙に金箔、表紙及び裏表紙には強圧での空押しによって、書名と刊行団体名が表示されている。薄葉紙を用いているとはいえ本文だけで417頁もある堂々たる資料本で、その情報量には圧倒されるのである。

見えているのは出版後繙読された形跡のない状態で手に入れた個体。これを発見した経緯は詳らかにできないが、初見の印象では全くの新刊本。恐らく人手に渡ったのは私が最初かと推察できた。研ぎ下ろしの刃で小口を裁ち落とされた本文用紙は、今でも手が切れるほど鋭い。


 巻頭にこれも薄葉のアート紙が一枚綴じ込まれており、「故 田島達之輔君」として若かりし頃の近影が掲げられている。田島氏は日本舶用発動機会の初代理事長で、戦前は農林省にあって漁業の近代化すなわち漁船の動力(エンジン)化を強く推し進めた人物。その姿勢は退官後も変わらず、大東亜戦争の争乱と荒廃を潜り抜けて粘り強く動力船の普及に努め、船舶用エンジンの指導者として関連各界から高く評価されていたらしい。戦後わが国の急激な経済成長に埋もれてしまった、知られざる偉人の一人なのだろう。その田島氏の死を契機とし、わが国漁船動力化の端緒から連なる技術的推移を正確な歴史資料として残そうという機運が興ったことが、本書編纂の直接的な動機と思われる。

 わが国の漁船動力化は明治391906)年に竣工した静岡の水産試験船・富士丸がその嚆矢であり、本書執筆の筆が起こされた昭和291954)年当時には、まだ富士丸時代を直接知る関係者が多く健在だった。そのため、揺籃期の記述は非常に具体的でかつ幅広いエピソードが採録され、はじまり物語的な読み物としても大変面白く読み進むことができる。

 

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 国立科学博物館発行の展覧会図録『20世紀の国産車』によると、わが国に初めて自動車が伝来発走したのは明治311898)年初頭。その後、国産自動車は明治421909)年頃から徐に個人的な試作が始められ、本格的な生産は大正111922)年の白楊社によるアレス号(オートモ号)からとされている。対して漁船の動力化は述べたように明治39年の富士丸からだが、『日本漁船発動機史』巻末の年表に就いたところ、それ以前の明治371904)年にも国産陸用エンジンを載せて出漁(故障続発のため断念)した事例が見られた。舶用エンジン自体はすでに明治311898)年に輸入石油エンジンをコピーした4馬力型の国産エンジンが登場し、初の汽船(旅客・貨物輸送)用石油エンジンとして実働を始めていたとも記されている。

 自動車の場合はすでに輸入車によってその全体像を知ってからの国産化であり、当初からエンジンを含めた車輛全体を開発生産することが目標とされていた。そのために、幅広い技術的要素を満遍なく開発しつつ一個の運搬機械として統合完成するのに、二十年以上もの期間を要してしまったものと考えられる。しかし漁船はすでに洋式船体の工法も確立されており、動力化はエンジン及びスクリューなど関連技術の開発や舶載に向けた最適化に主眼が置かれていたと思われる。なので、富士丸のように動力船として最初から計画的に建造することなど念頭にない者が、すでにある陸用(工場の動力用)エンジンの手頃なものを船体に安置して出航してしまう事例が先行しているのである。

 こうした揺籃期のドサクサ的なエピソードはその先行事例が不完全に断念された経緯なども含めて、動力漁船というよりもむしろベンツの三輪自動車が初めて出現した前後の様相とあまりにも似ていて興味深い。


 明治31、エンジンを装備することによる本邦陸海運の新たな幕開けが全く同時に起きていたことになるのではないだろうか。有史以来初めての自動車オトモビルがバタバタと喧しく築地辺りを走り回っているその脇で、これまた初の国産石油エンジン付き汽船が隅田川をポンポン暢気な音を立てて上下していたのかもしれない。そんなニッポンの夜明けぜよ的イメージも私には大変に面白かった。

 

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 漁船の性能向上とは、すなわち舶用エンジンの導入と普及なのである。そしてそれは漁場拡大と漁獲量の増大という成果としてただちに実り、そのまま国民生活の向上に直結する、一大事業であった。そのため舶用エンジン業界は官民一体となって船腹の開発に臨み、副産物として非常に多くの調査データや正式図面が蒐集保管されることになる。

本書には富士丸に搭載されたアメリカ製4ストローク・ユニオン型エンジンの外観図をはじめ、極初期の舶用エンジンの正式図面が多数再録されており、エンジン好きにはまったく堪えられない面白さかと思う。また時代を追って特徴ある新型エンジンの諸元および試験データも綿密な校訂で掲載されているのは嬉しい。これらによって舶用エンジンが発達普及してきた様相はもとより、ひいてはわが国の漁業発展史にまで視野が広がってゆく。

私は先にエントリーした岩波新書版『鯨を追って』を読んでから本書を読んだ関係上、捕鯨発展史などの背景にはこんな技術的な進展が隠れていたのかと、一々頷けたりもしたのである。また近いエントリー『益田玉城』で見えている絵画作品「現代隅田川風景」にしても、描かれた曳き舟から黒煙が立っていないのは、あれは古い石炭蒸気ではなく当時最新だったエンジン船という表現だったのか。いや待てよ、では曳かれている方の帆掛け船だって、もしかしたら発動機不調で曳航されてゆく富士丸の姿なんじゃなかろうか、など普通の絵画ファンでは思いもよらない夢想に耽ることができたのである。

そして日頃からバルブ挟み角がどうのボア×ストロークがこうの滑ったの転んだのと自動車用エンジンばかり念頭にちまちまと物を考えていた頭には、その意味で驚くことの連続なのであった。

 

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 冒頭本書の成り立ちを発動機会「編」としているが、同会顧問中村一徹氏は「あとがき」の中で、執筆者全員のフルネームを記してその努力を顕彰している。すなわち伊藤茂、石原乕司、松屋秀男、浅川鉄二、北原晴彦、および中村氏ご本人の合計六氏共同執筆。最終の原稿・資料取り纏め役として石原氏の労苦もここには特記されている。また第2章「各種発動機の変遷」では田島氏の回顧談(略・田島達之輔三十年史)を多く援用し、開闢期の漁船動力化にまつわる正確なエピソードを盛り込んでいる。

 この歴々の努力により、ともすれば風聞憶測によって曖昧糢糊としたお伽噺になってしまったはずの漁船動力化史がその黎明期からの正確な資料として書物に固定され後学に向けて遺されたことは、大変に重要で意義のある出来事であったと思う。

 

 

 

 

 

 

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日本語 NOw

 

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 「吸い殻らは灰い皿らの真ん中かに落としてください」 が 正解だ。


 母国に帰って 日本語学校 からやり直し給え。 これを作ったキミ。


 くっくっく。

 

 

 

 

 

 

 

 

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Lolita Lempicka

 

 冬の香水を選ぼうとクローゼットをごそごそやっていて見つけたオー・ド・トワレ、『 Lolita Lempicka 』。

 

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 何年か前、知り合いの女の子に中学進学祝いとしてこの香水をプレゼントしたことがあった。しかし嬉しくてママに見せたら速攻没収されたと、あとで泣きながら電話をかけてきたものだ。

 女子中学生に香水をプレゼントするぐらいは、社会的儀礼の範囲内なんじゃないかなぁ。これを見つけた時、すぐに「ああ、あのコがこれを使ったらきっとキゼットの生まれ変わりみたいだろう」と迷わず決めたのに。

進学祝いにニッケルメッキのコルト1903を手渡すとか、けん銃は危ないから螺鈿の匕首にしたとか、わが国でそうゆう行儀は今や完全に廃れ去ってしまった。だからこうした物でお茶を濁したつもりでいたのだが。

残念なことだった。

 

 あいや、迂闊迂闊。香水だけじゃなく、タマラ・ド・レンピッカの展覧会図録なんかも一緒に渡せばよかったのか。香水と画家の関係は分からないけれど、そうしておけば先方のママだって私の意図を正しく理解して・・・、いや、ないか。奪い去る者に理屈は必要ない。ただ結果のみだもんな。


 その後しばらくの間、ロリータ・レンピッカは彼女ではなくママの香となった。甘やかな中にも清々しい、女性らしい大好きな香だ。しかしその香を聞くとはなく聞きながら、私(たち)は内心呟くのだった。

 「ミスマッチ(笑)!!

 

 

 

 

 

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展覧会図録 益田玉城

 

 展覧会図録『益田玉城』。

 19951月から同4月、都城市立美術館と目黒雅叙園美術館で順次開催された「益田玉城展」に於いて販売されていた図録である。奥付らしき頁に正確な発行年月日の記載はないのだが、都城市立美術館の会期が同年113日からとなっているので、それまでには発行されていたのであろう。

 ヨコ190×タテ300㎜変形判無線綴じ、部分多色刷り本文71頁の軽快な成り立ち。本文に用いられたややアイボリーの用紙が作品図版の地色と馴染みつつも彩色を引き立てる、絶妙な色彩設計を見せている。

 

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 本図録には、作品収録頁に先立って二篇のたいへん面白い小論が収められている。すなわち目黒雅叙園美術館学芸員の村田真佐子氏による「益田玉城―迷宮を旅して―」、及び都城市立美術館学芸員の冨迫美幸氏による「益田玉城と『都城古今墨蹟集』」。同時代の大家連には知名度で些か及ばぬ玄人好みの玉城だが、その人間性や制作事情などに関してはこの二篇を読むことで基礎的な理解に辿り着くことができる。続いて多色及び単色刷り作品収録頁、詳しい年譜と、展覧会図録の定石に則った構成編集。外連味はない。

惜しむらくは収録作品の大半が単色刷りの再現であり、あの枯淡の中に立ち顕れる極彩色の絢爛さといった玉城一流の色使いを楽しめない点かと思う。尤も私はこの展覧会を雅叙園美術館の方で心ゆくまで堪能したのである。その色彩は今でもハッキリと目に焼き付いているから、図録が白黒であろうが個人的にはなんら問題ない。

 

 昭和四(1929)年に横濱のとある寺に生まれた私の父は、子供の頃しばしば目黒雅叙園の庭で遊んだものだという。当時住職であった祖父が雅叙園で何事か集まりに参加する度タクシーに便乗し、所用の間は腰元風の女中を引き連れ、広い日本庭園で蜻蛉やら蛍やらと追い回していたそうなのである。

年譜的にいえば、父が「坊ちゃま」と呼ばれながら無心に遊んだ雅叙園は開業早々の、戦前最も華やいだ時期だった筈。してまた文芸絵画と強力に後援を惜しまなかった祖父のこと、その集まりは、ひょっとすると例の帝展改革にまつわるものだったかとも想像されてしまう。父の眼前には、一体どれほどゴージャスな光景が展開していたのであろうか。それからそれ、私の連想は加速してゆくのだった。

「その目をください。お父さん」

不意に口を突いて出た言葉。言われた父はもとより、言った私自身が驚いた。

 互いに鼻白んだまま睨み合い、やがて「馬鹿め」といわんばかりの苦笑い。そこで話題は果て、数年後に世を去るまで父が雅叙園の宵を語ることはなかった。


 

 

 

 

 

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伊勢神宮の古代文字

 

 丹代貞太郎・小島末喜共著、限定私家版『伊勢神宮の古代文字』書影。

 昭和五十二(1977)年十一月に発行され、共著者の小島末喜氏が発行も担当している。B5判寸詰まり無外装、平綴じ本文182頁。漉き模様の入った表装紙にはそこはかとない雅味を感じはするが、全体質素ないかにも私家版といった雰囲気がある。前付けに薄口アート紙二葉の口絵写真、後付けに各種神代文字一覧表の折り込みがある。奥付には「限定出版。売価三千円(送込)」の文字が認められるものの、限定部数及び個体番号の表示はない。1977年末の私家版としては高額な部類と思われるが、国学・神道系の著作にその常識を当て嵌めることは無茶であろう。表紙に添えられている「ついに現れた幻の奉納文」というサブタイトルはこの一箇所だけの表記であり、本エントリーでは採らなかった。

 エキセントリックかつ秘教的な姿勢の私家版であり、限定出版としての総個体数などに迂闊な推察を許さない。ただ馬齢を重ねた一古書愛好家として、経験的に目にした印象では五百部を越えぬ程度の数だったのではないかと印象している。探して得られぬ本でもないが、そもそも刊行当初から教派神道系の神社や国粋思想の強い神職などに全数が納まってしまい、以降の移動はない本なのである。それなりに覚悟して探求の途に上らねば、徒に時間だけ空費して心を病むことにもなろう。

 もっとも当節ではフリマアプリが普及しているから、時は金なりを実践するつもりなら意外とゲットは早いのかもしれない。

 

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 元来中国の文字である漢字がわが国に招来される以前にも、実はわが国に独自の文字があったのだとする考え方。すなわち神字(カムナ)日字(ヒフミ)の類は有史以前の古代文字であるという認識。それは当然のことながら上古代の日本にその文字を必要とするだけの固有なコミュニケーション文化が存在していなくてはならない理屈となり、決して未開の原始状態ではなかった、とする考え方。これが古代文字を取り扱う際の基本スタンスなのである。本書の記述はすべてこの認識の上に立脚している。

 本書の主たる執筆者である丹代氏は青森県の篤農家で、出版当時六十九歳。先立つ昭和四十七~八(1973)年の両年を費やして、古代文字の実例蒐集のため全国の寺社歴訪を敢行した篤学でもある。労多くして実り少なかったその探索行が終わりを迎える頃、しかし氏は伊勢神宮の神宮文庫に判読不明な古代文字で書かれた掛け軸様の奉納文が秘蔵されている事実を知ることになる。その数九十九点。神道に於いて最高格式を誇る伊勢神宮の附属文庫奥深く、類例のない大量の古代文字文書が存在していたのである。

 

この文書を自ら全点転写した丹代氏がそこに記されている文言を二年がかりで解読した翻訳文に、個々の文書や染筆者に関する解説論考を加えたものが、本書の中核となっている。その執筆態度は正に全身全霊を傾けた熱情が迸り、終始真剣勝負そのものの気魄が一貫している。しかしてその論旨は古代文字の実在を大前提として非常に明晰な展開を見せ、記紀の表現に示された古代文字存在の可能性解釈などに曖昧さを残すまいと重ねる筆致は、時として辛辣ですらある。

ここに田園調布「天降り日の宮」斎主宮司の小島末喜氏が共鳴し、丹代氏の草稿玉成を扶けながら、自ら神宮文庫に於いて二度に亙り文書現物全点の写真撮影を行ったものを影印として提供している。小島氏はこのとき、崩壊寸前であった原文書の補修費用を献納したのだという。両名ともに、この古代文字文書をなんとか世に知らしめようとする無私の行いであったのかと、驚愕せざるを得なかった。

 

 本書が全くの偶然から我が手に落ちて、早四十年近くが経とうとしている。見出したのは八幡書店の編集部を訪れた時だったか、あるいはその圏にある古書店ででも目に留まったか。

 当時この本を何度か繰り返し読むうちに、私は行間に滲む丹代氏の実直な人柄を好ましく思うようになっていた。文化果つる本州最北辺で営農する氏は、巻頭の推薦文に於いてさえ「学歴も学殖もない」と評された人物。その無学な農家の一人が私費を投じて全国的なフィールドワークを決行し、資料を集め、この古代文字群を世に出すため勉強に勉強を重ねたであろうことは文章の随所に読み取れた。そして失礼ながら意外なほどの論理性、厳密さで古代文字全体の実証にまで挑もうとしていたのである。そのエネルギーは並外れたもので、学部あたりで年々同じ講義を繰り返す腰弁教授どもの比ではないと、ほとんど畏敬に近い感情が湧くのを私は感じていた。

 そして読み進む内に氏の熱誠が吾身に移り、自分の中にあった考古学的な時経列の認識とか実証性とかが次々と瓦壊してゆくのを感じた。瓦壊というよりも、むしろとろけてゆく感覚。遠い過去と近い過去、中央と辺境、封建支配と被支配階層、今までハッキリと弁別堅持していた科学の敷居が、「古代文字」の一言にトロトロと溶けてゆく。理性が酔っぱらってゆく。やがて黒白の鮮明な市松模様の輪郭がどんどん歪み、混じり合ったマーブル模様の渦巻に滑り落ち、もがきながらも押し流される快感が訪れる。どこか遠くで北原ミレイの『石狩挽歌』がぐるぐるとエンドレスでこだましていた。


 バサッと本を閉じ、顔を上げる。

「ぶるるるるるるあァッ!!」


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 古代文字に関しては、ただただ「悲しい文字」としか言う言葉を知らない。殊に国粋・教派神道の圏内でコテコテのガチガチに塗り籠められてしまった現在、時すでに遅し。私としては今更何をかいわんやのスタンスだったのである。しかしこれも書縁たるか、些か思う処を記しておく。

 先ず原典とされるヲシテ文書が発見されたのは、実証科学など影も形もない江戸時代のこと。すでに発見の直後から国学の強烈なバイアスで囲い込まれ、後付けに次ぐ後付け、虚構の上に針小棒大な虚妄がこれでもかと積み重ねられ、拡散蔓延が続けられた。そもそもの「古代文字」がいつの間にか「神代文字(カミヨモンジ)」と壮大に呼び替えられ、皇威を笠に着た胡散臭い似非国粋宗教の宣伝材料にされてゆく。そして昭和に入って国語学者まで嘴を突っ込んでの虚しい真贋論争と、巻き込まれ弾圧したりされたりしてゆく純真無知な信者たち。ことここに至ってヲシテのフトマニのは木っ端微塵に吹き飛ばされ、神代ありきウカヤフキアヘスありきの妄想は留まる所を知らない勢いだった。古代文字が「誇大文字」に否応なく化けさせられてしまったのである。

 この経緯を探訪俯瞰していた私には、ひたすらに悲しみしか感ぜられなかった。古代文字を真と言う者も偽と斬り捨てる者もカバ男の知性には全く同断、所詮は馬鹿と阿呆の絡み合いでしかなかったのである。

 

わが国に漢字が招来されて初めて文字の文化が興ったとしても、紙芝居でもあるまいに暦一枚めくってハイ今日からみんなで漢字を使います、なんて事が起きた筈がない。これが国中に普及伝播するにはそこから延々百年以上もの歳月が必要とされたのだ。それでも漢字を自在に操るほどの知識階級はごく限られ、民間ではせいぜい見よう見真似の仮名でも使えたら大したものだった。この情況は明治になるまで基本的に変わらなかったのである。なので、今でも木工建築の世界に微かな名残りを見出せるように、むしろより簡単な字形の書付け符牒の類の方が民衆の世界では一般的であったろう。

また漢字文化の普及につれ、そうした符牒を国語に当て嵌めた私製の文字体系がごく限られた地域、家族、あるいは商圏の中でのみ通用していた時期もあったはずなのだ。九州北部から山陰にかけて古代文字の痕跡が濃厚なのにはそうした理由があるのではないか。この奇妙な偏頗に民俗学的な側面から実証科学の光を当てようと試みた人物は、かつて一人でもいたのだろうか。国民が一律の漢字体系に縛られるようになったのはごくごく最近のことでしかないという事実を、もう一度よく思い起こす必要はないか。神武東征だの超古代文明だのピラミッドパワーだの、まったくなんら一切どこにも関係ない。おとぎ話に妄想を膨らませるよりも前に、科学の目で見詰めるべき事柄は山のようにあった筈なのである。

全国民が同じ文字を使うものなのだとか、一つの文字体系が導入されればそれまでの文字はトコロテンのように押し出されて廃絶するとか、言語文化に対するあまりにも幼稚な認識でこの古代文字の真贋が問われてしまったことは悲しい中にも最も悲しい出来事であった。長い時間をかけて拡張発展しながら定着してきた漢字のような文字もあれば、それこそ一代限りのようにして役目を終え消え去った私製の文字体系が、過去のいつかどこかに存在していたとしても一向に不思議はない。

文字の流通伝播は決して一直線ではなく、時間的地域的な空白は常にあり、そこに古代のものではない「古代」文字が存在していた可能性は否定できない。言葉というのはそのような物なのである。

 

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 古代文字に関する書籍は本書一冊しか持っていないので、カバ男のブログで今後これについてエントリーすることはないと思う。なんといふ悲しさぞや。かつてはあの『神代秘史資料集成』全巻をはじめ多くの稀少資料を持っていたが、すべて焼き捨て、結局丹代氏の労作である『伊勢神宮の古代文字』だけが残ったというワケだ。

それほどに、今でも私は同氏の熱い学究姿勢には敬服しているのである。

それ故に、悲しいのである。

 

 

 

 

 

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お知らせ

 

 先月後半から今日あたりまで雑事が重なり、なかなか落ち着いてPCに向かう時間が取れなかった。エントリーはなんとか予約投稿で月末まで引っ張れたものの、さて手持ちが払底。今、寸暇を惜しんで(笑)文書準備を進めている。


 十一月最初の書物関係は『伊勢神宮の古代文字』で、すでに一旦書き上げていて今は「冷まして」いる情況。週末頃には公開できるかと思う。

 次いで展覧会図録『益田玉城』。今は閉館してしまった目黒雅叙園美術館が館蔵コレクションを展示した際の図録。本当はパーマネントコレクションと書きたかったが、虚しいので止めた。

 三冊目は『日本漁船発動機史』で、エンジン好きでもなかなか読むことのない舶用エンジンの稀覯資料になる。もう少し先に準備するつもりでいたのだが、ブログ『幻灯館マリオネット』のひで郎さんが航空機エンジンの珍しい本を紹介されているのに触発されてしまった。より軽く小さくを目指した航空機エンジンと重厚長大文句あっかの巨大漁船エンジン、私の中では好対照で面白がっている。


 相変わらずの長広舌、乞うご期待とは言わぬが斜め読みぐらいで良いヒマ潰しになれるよう、ちょっと頑張ってみたい。

 

 

 

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