愛のクルマバカ列伝

 

 小沢コージ著『愛のクルマバカ列伝』は平成111999)年11月に発行された、クルマ人物歴訪の異色ルポルタージュなのである。月刊専門誌『ベストカー』に連載中の「小沢コージの愛のクルマバカ列伝」から加筆訂正しての収録である旨、最後の最後に小さな表記があった。

 

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B5判軽装、本文175頁単色刷りながら、ご覧の通り極彩色の派手なカバーが掛けられている。こうゆうのが書店のクルマ本コーナーに平積みされていれば、誰でもついつい手に取って、中身もたしかめずそのままトランス状態でフラフラとレジに向かってしまうに違いない。クルマ本好きの急所を突いた一種のゴキブリホイホイ的デザインなのである。私もコレに引っかかった。

奥付を読むに本書は「別冊ベストカー 赤バッジシリーズ」という叢書の内で、223と巻次が振られている。巻次からも分かるように長く続いた老舗の叢書で、その時代の有名レーサーによるドラテク(ドライブテクニック)指南とかチューンナップ解説書の類が多く、大半は新書版だった記憶がある。テキストよりもイラストと写真をメインにした編集でもあるが、本書のような判型は異例だったのではなかろうか。ほかにイラストレーターとして牧野良幸氏の名前がクレジットされている。

発行元は三推社と講談社のダブルネームとなっていて些か奇妙な表記だが、前社が編集の担当で後社は販売という役割分担をしていたようだ。講談社と三推社の関係は分からないが、クルマ本や海外旅行本に同じようなダブルネームを見ることが多かった。

 

 自動車ジャーナリストの小沢コージ氏が、クルマ趣味に人生を捧げた二十六人の「バカ」を歴訪し、その波乱万丈な生き方を赤裸々にルポしている。その馬鹿っぷりは並み大抵ではなく、例えば「カバ男は公道上で時速250kmを達成しようと改造を繰り返した馬鹿」程度の馬鹿ではない。二十六人全員が全員クルマに人生の全てを捧げ、ほかのもっと大事なことには全然人生を捧げなかった馬鹿ばかりなのである。曰く本物のフォーミュラマシンにナンバーを貼って公道走行を可能にした男、曰くボログルマ一台を再生しただけで体育の教員を辞めて自動車メーカーを目指す男、曰く永年連れ添った奥さんと離婚してまでフォーミュラマシンの制作を始めた宝石商、などなど。いずれもバックミラーなどとうの昔に捨て去って前しか見ないでずんずん進むお歴々。もしかしたらブレーキも捨ててるかも。とにかく頭が下がるのである。

 あとはもう何をかいわんや。というか、言葉を失う。

 

 小沢コージ氏というのは、本当に人が好きな自動車ジャーナリストなんだな。そう強烈に思わせる一冊だった。そして本書が出されてから既に二十年余り、この二十六人の馬鹿たちが今も幸せなクルマバカでいてくれればと、切に願うのみなのである。

 

 

 

 

 

 

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市松人形

 

 青山惠一著、『市松人形[昔人形コレクション]』同版二冊書影。

京都書院の出版による平成101998)年4月発行の文庫本で、言わずと知れた「アーツコレクション文庫」の第74巻となる。本文総アート紙無線綴じ255頁、カバー掛け。例によって本表紙には和文を記さず「ICHIMATSU DOLLS」とだけあり、表・裏表紙には市松人形を抱く日本髪の美少女近影があしらわれている。この近影は大正、遅くとも昭和初頭までの芸妓ブロマイドと思われるのだが、出典の記載がなく定かではない。

同じ「デザイン・玩具シリーズ」の続巻『御所人形』と非常に似通った装本で、この頃のアーツコレクションは本表紙に和文を入れない外装デザインに凝っていたのだろうか、などとも想像できる。カバーには著者撮影の人形写真を主としたデザインが施されており、この点『御所人形』とは一味違って面白い。


「本のこと」カテゴリーで日本人形が続いてしまい些か心苦しいが、あながち偶然というワケでもないのでそのまま文書投入しようかと思う。というのも本書、先のエントリー『御所人形』の準備で書架の奥を探っていたら転がり出た代物だった。しかもコンディションのほぼ同じものが、ご覧の通り二冊も出て来た。廃墟・自動車図書館でもさすがに埒外の文庫本まで副本を保管するようなことはしていないし、してみれば「ダブリ買い」だったのだろう。

すでに読んだ当時のことをほとんど忘れているような有様で、日本人形の探究はよほどモノにならなかったのかと今、苦笑いしながら眺めている。

 

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 形代という意味が抜け落ちたワケではないにしろ、基本は抱き人形である市松人形は御所人形と異なり、その点実用品的だったともいえようか。十八世紀中葉に生まれ、明治に普及し、大正時代に制作技術と表現性のピークを迎えていたという趣旨の評価が文中にあった。著者の青山惠一氏は本書の出版時点ですでに二十年余りを一筋に歩まれた人形専門の骨董商ということで、一読その文章からは深い市松人形愛が滲み出ている。

 本書には「市松人形」から始まり明治大正昭和と時代を下りながらの人形解説、また作者の消息探訪など、いずれも短いながら専門家らしく要点を抑えた文字稿が十数篇ちりばめられている。といってもそのスタンスは飽くまで愛好家が同好に語りかける趣で、筆致は優しく穏やかだった。

 巷間人形を愛する人々は多けれど、一個の工芸作品としてその鑑識にまで迫ろうとする愛好家にはなかなかお目にかからない。過去に幾つもの著作や研究書も存在しているようだが、みな納まる所に納まって神保町などでも目にする機会はほとんどない。情報は極端に欠乏している。なので、たとえ文庫判見開き2頁ほどの文章であっても、こうした著者による平易な解説は凝縮された知識を齎して大変に有難いのである。

 まして青山氏は商として一体一体真剣勝負でその成り立ちを見詰め続けてこられた仁。その文章はまさに熟読玩味に価するといって過言ではなかろう。


 それでも、本書は市松人形に関する鑑識評価を学ぶための内容というよりは、ただ好きになるための入門書といった、一見通販カタログ風の軽い雰囲気。恐る恐る未知の分野に足を踏み入れた好事家の目には、青山氏の文章すら人形写真に添えられた長めのキャプション程度に映っただけかもしれない。当時の私がそうだった。

 そして本書の主眼はたしかに夥しい人形現物の写真なのである。その中で読者は好みの一体を探して頁を往きつ戻りつ逍遥し、徐々に市松人形の深く穏やかな世界に分け入ってゆくという趣向。どの頁を開いてもひたすらに人形の顔顔顔、読者は一体どれほどの市松人形と向き合うことになるのだろうか。


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だが、物を知る認識するということは、取りも直さず見ることなのである。

何も分からないままひたすら同じ(ように見える)人形を見て見て見続けて、目を馴染ませてゆく。その数が百を過ぎ二百を超え、ある時卒然と「これは違う」と思い当たる。その時自分の中に市松人形の漠然としたイメージが、朧ながらに形を結び、理想の姿として見えてくる。コレクションの出発点に立つのである。


 畢竟、本書は古物古玩の世界で誰もが必ず通る入門のプロセスを、かなりの部分まで疑似体験のできる編集。取りつきやすく目で楽しい文庫本にしてこのような構成は、編集者にも斯界に充分な素養のある人物が起用されていたであろうことを想像させる。こうした暗示に富む編集スタイルなど、やろうとしても高価な大判写真集などではなかなかやれないものなのだ。ここに本書を一読する価値がある。

 京都書院も伊達に「アーツコレクション」を標榜していたワケではなかったと、今更ながらに畏敬の念を覚える私なのである。

 

 



 

 

 

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国道1号線の手向け花

 

 若一光司著『国道1号線の手向け花』。大阪のブレーンセンターという版元から、19919月に刊行されていたルポルタージュ写真集。

 A5判カルトン表紙の角背仕立て、総厚口アート紙約120頁に単色印刷。カバー掛け。

 見えているのは帯(アイキャッチの目的で本に巻く別紙)の付いた完本で、中に版元の刊行案内冊子が保存されている。たしか新刊当時に版元から直接取り寄せたものだったと記憶しているのだが。

 

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 作家若一氏が大阪梅田を起点として国道1号線を東上しつつ、路傍に見出された手向け花107点の全てをカメラに収めている。死を悼む手向けの花だけを集めた写真集というのは非常に珍しく、少なくとも本書の刊行当時までわが国では前例のない企画ではなかったろうか。巻末には個々の作品解説とともに、撮影時に周辺の住人を訪ねて当該の花や事故に関するコメントを取材したものが多数付記されている。ありきたりのコメントはむしろ少なく、意外なほどストレートな証言の数々は作品理解のために有難かった。

この本の取材行、元々は文字通り国道1号線の全線およそ550kmの路上にどれだけの花が手向けられているのかという、若一氏の素朴な疑問から始められたようだ。単独行の取材をイメージしていたものが関西TVのドキュメンタリー企画に上がり、番組スタッフを含めた四人での取材ツーリングが決行された。

 

 交通量の多い一級国道の路傍にひっそりと生花が立てられていれば、それが事故で命を落とした者を悼む供花であろうことは誰しも容易に推察できる。その花の置かれた場所のすぐ近く、或いはまさにその地点に、いつか誰かが遺体となって横たわっていたのは疑いない事実なのだ。107の手向け花は、すなわち少なくとも107人の交通事故死を示す私設の道路標識であり、その何倍もの人々の悲しみを静かに訴える墓標でもあるようだ。

 しかし、果してその花は本当に一般的な推察どおり事故の犠牲者のために捧げられたものだったのか。死亡事故によって残された人々が死者に花を手向けて鎮魂するという習俗のイメージは、誤りではないのか。花は誰に向けられているのか。現場に漂う濃密な死の雰囲気や不気味な夢に毎夜悩まされながら、取材行を続ける若一氏は徐々に疑問を抱くようになる。

 

このときのドキュメンタリーは『たむけ花(国道1号線550キロ)』と題され関西TV系で放映されたというが、ネット上にそれと思しき動画情報は皆無だった。すでに三十年が過ぎようとしているが、もしどこかにファイルとして存在するのなら是非とも観てみたいものだと思っている。そして結局本書は番組から更に一年弱かかってようやく出版に漕ぎつけるワケだが、その間も若一氏は手向け花の意味について自問を繰り返し、ある思いもよらない結論に到達することになるのである。

巻末に若一氏が寄せた「人はなぜ花を手向けるのか」にはこの経緯が簡潔に綴られている。僅か4頁の小文ながら、ここは圧巻だった。

 

 

 

 

 

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御所人形

 

 切畑健編『御所人形』書影。

平成101998)年5月に京都書院より発行されていた文庫本である。本書は美術工芸の愛好家なら知らぬ者はない、かの「京都書院アーツコレクション」叢書の内にあり、第118巻と巻次を振られている。文庫判総アート紙の本文に毎頁オフセット多色刷り、255頁。アーツコレクション文庫としてはごく平均的な成り立ちとしてよいだろう。<凡例>として本書が『人形1 御所人形(昭和60年刊)』の改訂編集版である旨の記載もあるが、その委細は分からない。

本表紙には和文書名がなく、「GOSHO NINGYO:Japanese Dolls」の一行が目を惹くだけである。このせいか本冊は国際線の免税店などでよく見かけるお土産用の袖珍ガイドブックのような外観となっており、写真から受ける王朝風な雅との対照が面白い。あるいはそのような需要も見込んだデザインだったのかもしれない。これに別図案のカバーが掛けられている。

 

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見返し側に巻き込まれたカバーの袖には「デザイン・玩具関係シリーズ」と銘打って、一見脈絡のない二十点ほどの書目も掲げられている。初見当時はこうした余計な文字列を平気で刷り込んで書物としての品位を下げるやり方に憤慨しもしたが、すでに古書としてしか手に入らないアーツコレクション文庫を探求する現代の読書家にとっては、一縷の資料ともなっているのであろう。そう思うと今、この優れた出版事業の末路に私は哀惜の嘆息を禁じ得ないのである。

同じ位置にシリーズの基本コンセプトと思しいコメントも認められるので、全文を採録してみたい。すなわち

「本シリーズは、私たちが幼い頃、遊んだり目にしたものを豊富に誌上紹介します。ページを繰るたびに、なつかしい思い出やその場の香りまでも甦ってくるようです。また当時の社会世情なども如実に反映されています。」以上。

 

 アート系で新たな分野に目が行ったとき、まずその取っ掛かりとして手頃なアーツコレクション文庫を読むことが多かった。先のエントリー『大聖寺伊万里』と同じように、人形というものに興味を持って探究の切っ掛けにでもと購ったのが本書である。しかし、結局よく分からないまま私の好奇心は萎え、踵を返してこの分野から離れたのだった。

 この頃四十になっていたのかどうか、まだまだ腰の決まらぬカバ男であった。

 

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 江戸期に発生成立した御所人形は、主に皇族女子の愛玩品として限られた存在であった。皇族の女子が佛門に降嫁し、その死後寺院の書庫深く遺愛の文物と共に伝世した人形どもが現代に再発見されたケースが、その大半だとされている。そのため、後世これらの人形はわが国の人形類として最高の品格を与えられ、実際に愛でられていたであろう「御所」を名に冠することとなる。

しかし逆に考えれば、消耗亡失が常の人形でこのような伝世品群だけが残っている故に御所人形とされたのであり、事実は皇族以外の貴顕や高位の武門などでも同じタイプの人形どもが侍っていなかったとまで断ずることはできない。御所人形の伝世に関する記録や人形自体の残存個体数が少なすぎるので、実のところこれらが本当はどのようなものだったのか定かではない、というのが現状での偽らざる鑑識なのかと思われる。

 とはいえ、この三頭身に寸詰まったかわゆい人形どもの大半が姫宮の由緒正しき専有物であったことは全く疑いのないところ。姫様がまだ頑是もない頃は小さな手に無心に握られ、心に機微が兆せばあれこれと話し相手にもなり、或いは恋の打ち明け話なども聞かされていたかもしれない。また時には癇癪に任せて力一杯投げつけられ、コロコロとどこまでも飛ばされて行くこともあったろう。そうして喜怒哀楽の全てを吾身に受け止めて、手足も髪もぼろぼろに同勢を一体二体と失いながら、人形どもは姫宮の心の平安を全力で支えていたのかと思う。「万勢伊様」「犬千代丸」などと名付けが伝世しているのは、すなわち人形との深い交誼と感謝の表れではなかっただろうか。

やがて述べたように佛門降嫁に際しては人形どもも筐底深く随行し、主亡きあとも居残って菩提を弔う縁となってゆくのである。

 

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 人形(ヒトガタ)と呼び直して呪術的な側面からみると、これら御所人形の持つ意味合いはまた些か違って見えてくる。

初めこのちんまりと可愛らしい人形どもは、姫宮誕生から時を置かず三々五々と身辺に集い、特段何をするでもなくただ侍っているだけの存在だった。その場を一瞥すれば小さく華やかな賑やかし、ただただかわゆいだけで寿福の誘いを装う、まさしくお飾りだったのである。

しかし目に見えない呪術信仰の次元で御所人形は、主である新たな生命を狙うあらゆる邪悪な攻撃に対し、全力で戦っていたのである。封建時代の宮中にどす黒く渦巻く凄惨な負の観念。昼なお暗い奥御殿には疫病神と累代の怨霊が凝り固まり、最も純真で無防備な嬰児に憑りつかんとうろつき回っている。夜ともなれば鬼、怪異の出来事が打ち続き、雷鳴が足音が鳴り騒ぎ、何とも知れぬ陰鬱な気配が姫の身辺に靄のように纏わりついてくるその恐怖。してまた最も醜く恐ろしいのは人の怨念であった。姫宮の健やかな成長を妬み嫉む感情が邪気と化し、なんとかして育たせまいと呪う凶悪な怨念に結集し、襁褓にくるまれ寝息を立てる姫宮に容赦なく襲いかかる。現代の感覚では集団狂気とさえ感ぜられるほどに、江戸時代の宮中は上代そのまま呪詛の恐怖が渦巻き蔓延する一触即発の世界だったのである。この強力なパワーに抗するに坊主神祇の類は全く無力。呪いには呪い返し、邪悪に対しては健善至極の御所人形でなければ到底太刀打ちできるものではなかった。そこでこの物ども、四六時中姫宮の回りで屯しながら遊ばれたり転がされたりとお相手しつつ、結界を張り巡らせ、主の身に迫る怨念邪鬼も一身におびき寄せて捨て身の激しい攻防戦を繰り広げることになるのである。しかしてその責務は大変に重く、怨霊呪詛だけでなく奸計によって浴びせられる仏罰罪障、汚れ穢れの類まで、姫の安寧と清浄を脅かす形而上の圧力全てに勝利し続けねばならない定め。何故ならば形代である御所人形どもが呪いに負ければ負けただけ、主の身に危害が及ぶのは論を待たないからである。

魑魅魍魎やら怨霊悪鬼が跋扈して実際に人を憑り殺していた封建時代、御所人形の隠された存在意義とは、姫宮を防護対象とした目に見えぬ呪術闘争のための霊的武装。いやさそれこそが御所人形の本質、そう表現してもあながち的は外していないと思う。

 

無題  

 今こうしてアーツコレクション文庫『御所人形』を繙き精細な印刷によって再現された多くの現存個体を観察するとき、天真爛漫な笑顔で主を見上げるそのあどけない面相や身体に無数の傷が残されているのに気付かされる。ある人にそれは、単純な経年のクラックとして見えることだろう。あるいは姫宮の癇気が強く、度々傷められたのでもあろうかと。しかし私の目にはとてもそのようには映らない。この人形どもはどれほど悪逆の怨霊に挑んできたのか、どれほどの罪業執念を祓ってきたものなのか。その戦いで自らも傷つきながら、おくびにも出さず無垢そのものの表情でわらわらと這い寄り主を見上げるその眼差しの強さ清々しさよ。

今は科学の名において神も怨霊も解体数値化され、ただ根拠のない恐怖だけが静かに世界を覆う2020年なのである。しかし御所人形を愛でる着眼点の一つとして、口にはせずとも人形どもの目に見えぬ戦いを覚えておいてよいかとは思う。

アンティークの掘り出し物をお迎えする僥倖などあれば、なおさらのこと。

 

 

 

 

 

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按手呻吟

 

 もうかれこれ半月余り、この小さな本に悩まされているのである。

 すでに二回、一から全部書き直してもまだ飽き足りない。というか、思っていることの半分も文章に表せないで難渋しているというのが正直なところ。出てくるのは溜息ばかりなのである。

 

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 どうも京都書院のアーツコレクション文庫、相性が悪い。前回の『旅する少女の憩』はまあ口数でなんとかお茶を濁してはみたが、その前『大聖寺伊万里』などでも今回と同じように難儀した覚えがある。

 そもそも、始めてはみたけど結局身に付かなかったカテゴリーの本ばかりなのである、アーツコレクション文庫の蔵書は。なので自信をもって書けるほどの知見がない。

 それでも生意気なことを何か書いてやろうなどと企てるものだから、長広舌。空疎。今回はそれがイヤで多少なりとも調べはしたのだが、苦手意識がベースにあるのでまったく捗らない。

 しかしそうかといってこのままズルズル日を送っていては、丸々二箇月の間一篇も上げずコメント欄でブログ仲間から注意された去年と同じになってしまう。ではほかのもっと気楽な本など取り出してお手軽にでっち上げちまえばよさそうなものだが、それも安直すぎてイヤ。自分に納得できない。

 どうすりゃイイんだ。

 

 人はこれを自家撞着というのだろう。とほほ

 

 

 

 

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綠島小夜曲

 

 秋の夜長、これを聴いている。

 曲に関する逸話とか、歌姫のこととか、混信してくる中国大陸の電波だとか、なこた今更どうだってイイじゃないか。

 みんなみんな遠い昔の夢語りなんだから。


 毎晩ただひたすらにヴォーカルの音程を耳で追いながら、南のロマンスに思いを馳せている私なのである。

 でも、歌姫はどストライクなんだよなぁ。


 

 

 

 

 

 

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An old lady

 

 彼岸が過ぎ、もう晩夏ではなく初秋となったある日。目黒で飯を食ったあと私はマヒロとぶらぶら権之助坂を下っていた。

 

この坂も不思議な坂で、駅から大鳥神社に向かって目黒通りをずんずん下ってゆくときは、何年経っても変わり映えしない沿道の佇まいにホッとするのである。坂上の目黒シネマでは今でも「ジェームス・ディーン没後65年‼」なんか看板かけちゃってるし、古ぼけたラーメン屋がずらずら並んでるし、川っぷちには不動の老舗「目黒エンペラー」とか遺ってるしね。

しかし逆にハアハア息を切らして駅を目指して上って来ると、街のあまりの変貌に言葉を失うのである。今しも銀座ウエストのあった二股のあたりから坂上を仰ぎ見ると、古馴染みのビル群のその向こうから覆いかぶさるように超高層の駅前タワービルが立ち上がり、私は口をあんぐりと開けたまま仰向けざまに倒れそうになるのだった。

そこで急遽また駅に背を向けると、レトロな町並みに安堵する。

念のために振り仰ぐと、超高層ビル群が倒れかかる。

踵を返すと、また安心。

後見て口あんぐり。

「カバちゃん!そうゆうのやめてって言ってんじゃん‼」

10mほど先の方で他人のフリをしていたマヒロが、プンスカ顔で声をかけてきた。

 

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 お腹が一杯になってかつ町歩きなんかにゃ全っ然興味のないマヒロがタクシーを目で追いはじめたのを牽制しつつ、「やあ今年も酉の市の横断幕が掛けられたね」だの「ここに日本酒専門の酒屋があったんだ」だのとペラペラ喋り続け、問答無用で歩を進める。

 ふと覗いた路地の先、このアパートが目に入った。

「私を見て!」

とそんな声まで聞こえた気もする。


 畳一枚分の地面に札束何束というお土地柄、彼女は「土の」地面から、毅然として立ち上がっているのであった。

 いや潔い。

 

 

 

 

 

 

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