切畑健編『御所人形』書影。
平成10(1998)年5月に京都書院より発行されていた文庫本である。本書は美術工芸の愛好家なら知らぬ者はない、かの「京都書院アーツコレクション」叢書の内にあり、第118巻と巻次を振られている。文庫判総アート紙の本文に毎頁オフセット多色刷り、255頁。アーツコレクション文庫としてはごく平均的な成り立ちとしてよいだろう。<凡例>として本書が『人形1 御所人形(昭和60年刊)』の改訂編集版である旨の記載もあるが、その委細は分からない。
本表紙には和文書名がなく、「GOSHO
NINGYO:Japanese Dolls」の一行が目を惹くだけである。このせいか本冊は国際線の免税店などでよく見かけるお土産用の袖珍ガイドブックのような外観となっており、写真から受ける王朝風な雅との対照が面白い。あるいはそのような需要も見込んだデザインだったのかもしれない。これに別図案のカバーが掛けられている。
見返し側に巻き込まれたカバーの袖には「デザイン・玩具関係シリーズ」と銘打って、一見脈絡のない二十点ほどの書目も掲げられている。初見当時はこうした余計な文字列を平気で刷り込んで書物としての品位を下げるやり方に憤慨しもしたが、すでに古書としてしか手に入らないアーツコレクション文庫を探求する現代の読書家にとっては、一縷の資料ともなっているのであろう。そう思うと今、この優れた出版事業の末路に私は哀惜の嘆息を禁じ得ないのである。
同じ位置にシリーズの基本コンセプトと思しいコメントも認められるので、全文を採録してみたい。すなわち
「本シリーズは、私たちが幼い頃、遊んだり目にしたものを豊富に誌上紹介します。ページを繰るたびに、なつかしい思い出やその場の香りまでも甦ってくるようです。また当時の社会世情なども如実に反映されています。」以上。
アート系で新たな分野に目が行ったとき、まずその取っ掛かりとして手頃なアーツコレクション文庫を読むことが多かった。先のエントリー『大聖寺伊万里』と同じように、人形というものに興味を持って探究の切っ掛けにでもと購ったのが本書である。しかし、結局よく分からないまま私の好奇心は萎え、踵を返してこの分野から離れたのだった。
この頃四十になっていたのかどうか、まだまだ腰の決まらぬカバ男であった。
江戸期に発生成立した御所人形は、主に皇族女子の愛玩品として限られた存在であった。皇族の女子が佛門に降嫁し、その死後寺院の書庫深く遺愛の文物と共に伝世した人形どもが現代に再発見されたケースが、その大半だとされている。そのため、後世これらの人形はわが国の人形類として最高の品格を与えられ、実際に愛でられていたであろう「御所」を名に冠することとなる。
しかし逆に考えれば、消耗亡失が常の人形でこのような伝世品群だけが残っている故に御所人形とされたのであり、事実は皇族以外の貴顕や高位の武門などでも同じタイプの人形どもが侍っていなかったとまで断ずることはできない。御所人形の伝世に関する記録や人形自体の残存個体数が少なすぎるので、実のところこれらが本当はどのようなものだったのか定かではない、というのが現状での偽らざる鑑識なのかと思われる。
とはいえ、この三頭身に寸詰まったかわゆい人形どもの大半が姫宮の由緒正しき専有物であったことは全く疑いのないところ。姫様がまだ頑是もない頃は小さな手に無心に握られ、心に機微が兆せばあれこれと話し相手にもなり、或いは恋の打ち明け話なども聞かされていたかもしれない。また時には癇癪に任せて力一杯投げつけられ、コロコロとどこまでも飛ばされて行くこともあったろう。そうして喜怒哀楽の全てを吾身に受け止めて、手足も髪もぼろぼろに同勢を一体二体と失いながら、人形どもは姫宮の心の平安を全力で支えていたのかと思う。「万勢伊様」「犬千代丸」などと名付けが伝世しているのは、すなわち人形との深い交誼と感謝の表れではなかっただろうか。
やがて述べたように佛門降嫁に際しては人形どもも筐底深く随行し、主亡きあとも居残って菩提を弔う縁となってゆくのである。
人形(ヒトガタ)と呼び直して呪術的な側面からみると、これら御所人形の持つ意味合いはまた些か違って見えてくる。
初めこのちんまりと可愛らしい人形どもは、姫宮誕生から時を置かず三々五々と身辺に集い、特段何をするでもなくただ侍っているだけの存在だった。その場を一瞥すれば小さく華やかな賑やかし、ただただかわゆいだけで寿福の誘いを装う、まさしくお飾りだったのである。
しかし目に見えない呪術信仰の次元で御所人形は、主である新たな生命を狙うあらゆる邪悪な攻撃に対し、全力で戦っていたのである。封建時代の宮中にどす黒く渦巻く凄惨な負の観念。昼なお暗い奥御殿には疫病神と累代の怨霊が凝り固まり、最も純真で無防備な嬰児に憑りつかんとうろつき回っている。夜ともなれば鬼、怪異の出来事が打ち続き、雷鳴が足音が鳴り騒ぎ、何とも知れぬ陰鬱な気配が姫の身辺に靄のように纏わりついてくるその恐怖。してまた最も醜く恐ろしいのは人の怨念であった。姫宮の健やかな成長を妬み嫉む感情が邪気と化し、なんとかして育たせまいと呪う凶悪な怨念に結集し、襁褓にくるまれ寝息を立てる姫宮に容赦なく襲いかかる。現代の感覚では集団狂気とさえ感ぜられるほどに、江戸時代の宮中は上代そのまま呪詛の恐怖が渦巻き蔓延する一触即発の世界だったのである。この強力なパワーに抗するに坊主神祇の類は全く無力。呪いには呪い返し、邪悪に対しては健善至極の御所人形でなければ到底太刀打ちできるものではなかった。そこでこの物ども、四六時中姫宮の回りで屯しながら遊ばれたり転がされたりとお相手しつつ、結界を張り巡らせ、主の身に迫る怨念邪鬼も一身におびき寄せて捨て身の激しい攻防戦を繰り広げることになるのである。しかしてその責務は大変に重く、怨霊呪詛だけでなく奸計によって浴びせられる仏罰罪障、汚れ穢れの類まで、姫の安寧と清浄を脅かす形而上の圧力全てに勝利し続けねばならない定め。何故ならば形代である御所人形どもが呪いに負ければ負けただけ、主の身に危害が及ぶのは論を待たないからである。
魑魅魍魎やら怨霊悪鬼が跋扈して実際に人を憑り殺していた封建時代、御所人形の隠された存在意義とは、姫宮を防護対象とした目に見えぬ呪術闘争のための霊的武装。いやさそれこそが御所人形の本質、そう表現してもあながち的は外していないと思う。
今こうしてアーツコレクション文庫『御所人形』を繙き精細な印刷によって再現された多くの現存個体を観察するとき、天真爛漫な笑顔で主を見上げるそのあどけない面相や身体に無数の傷が残されているのに気付かされる。ある人にそれは、単純な経年のクラックとして見えることだろう。あるいは姫宮の癇気が強く、度々傷められたのでもあろうかと。しかし私の目にはとてもそのようには映らない。この人形どもはどれほど悪逆の怨霊に挑んできたのか、どれほどの罪業執念を祓ってきたものなのか。その戦いで自らも傷つきながら、おくびにも出さず無垢そのものの表情でわらわらと這い寄り主を見上げるその眼差しの強さ清々しさよ。
今は科学の名において神も怨霊も解体数値化され、ただ根拠のない恐怖だけが静かに世界を覆う2020年なのである。しかし御所人形を愛でる着眼点の一つとして、口にはせずとも人形どもの目に見えぬ戦いを覚えておいてよいかとは思う。
アンティークの掘り出し物をお迎えする僥倖などあれば、なおさらのこと。