てんとう虫が走った日

 

 スバル360かぁ。

あのバタバタエンジンの丸っこい軽自動車、子供の頃はほんとにこれでもかっつぐらいウヨウヨ走ってたよな。第三京浜の端っこを風に煽られながらヨタヨタ必死んなって走ってたりね。

ドアが普通と逆に開いたりサスなんかフワンフワンな感じで、よく小学校の先生なんかが通勤に使ってたっけ。スバル・・・すばるすばる後光の摺うり切れ・・・か。

 ん?俺なに書いてんだ今。いかんなぁ、俺としたことがあまりの暑さに脳細胞がユルんで、普段の明晰さを失っていた。あ普段通りかこれで(笑)。

 そうだそうだ今日はスバル360の本についてブログを書くはずだったんだ。ふんじゃま、ちょっと座り直してエアコン最強、抹茶アイスでも食って脳みそ冷やしてから始めっか。

 スバルのことはちょっと真面目んなんないと書けないね。安っぽくて見栄えもしないダンゴムシみたいなクルマだったけど、きちんと調べりゃ大したクルマだったじゃないすか。クルマ屋スピリッツ炸裂じゃん。

 戦争終わりのなんにもない時代、ここにもきっと、熱い男たちが集まってたんだよなぁ(ト冷蔵庫を漁りに行く)。


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 桂木洋二著『てんとう虫が走った日 スバル360開発物語』原刊本。自動車関連図書を主体とするグランプリ出版から刊行されていて、奥付の刊行年表記は198712月となっている。大きさはA5判。糸を使わない無線仮綴じの束にコート紙のカバーを掛けた軽装で、本文172頁。用紙の三方は裁ち放しで綴じ込みの栞紐や花布などのない、グランプリ出版のクルマ本としてはごくスタンダードな成り立ちである。

 著者の桂木氏は元々クルマ専門誌の編集制作、或いはレースの取材などに長く携わってこられた人物で、いわゆる業界人と考えてよかろう。本書以前にもすでに個人名でレース史料的な内容の編訳書など数点を発表していた実績があり、そのいずれもが信頼性の高い資料として廃墟・自動車図書館では重宝している。

巻末の「あとがき」には本書の成立経緯が簡単に語られている。それによると、桂木氏が初めて「何かまとまった仕事」として手がけたのが本書である由。恐らくは史料の編纂や原書の翻訳ではなく、ご自分オリジナルの著作として独自に取材を行ったテーマがこの富士重工業製軽自動車「スバル360」の回顧探訪であった、という意味なのであろう。

 

 昭和451970)年1月に発行されている『スバルの歴史』などの資料によれば、今日私たちが半ば富士重工業そのものという意味合いで用いている「スバル」というブランドネームは、実はこのスバル360が最初ではなかった。富士重工業の前身である富士工業に於いて「P-1」という試作車が、スバル360の前に存在していたのである。富士工業というのはそのまた起源を尋ねれば、帝国時代には世界でも有数の航空機メーカーであった群馬の中島飛行機である。これが戦後G.H.Q.による財閥解体指令を受け、おおむね生産拠点ごとに十二分割された内のひとつが富士工業。全産業に亙って敗戦から必死の復興中であったわが国で、同社が平時産業として中核とすべき事業に有望視されたのが自動車の製造、P-1試作なのであった。

P-1の排気量は1500cc。フロントにエンジンを積んで後輪を駆動、ドア4枚。同クラスとしては画期的なモノコック(応力外皮)ボディーを採用していたとはいえ、外見はごく手堅いセダン型乗用車で、開発も最終段階を迎え発表時期の策定をも始めようという段階まで煮詰められたクルマである。本来ならこれが「スバル1500」として、スバルブランド最初の一台となるはずであった。いや、事実は量産検討のための増加試作車のうち何台かが実際にナンバーを受け、タクシーとして群馬県内の悪路を一年ほども営業走行していたのである。

しかし、残念なことにこのクルマは最終的に市販されなかった。連合国の占領が解除されるとともに旧中島飛行機の各工場にも徐に結集再起の機運が高まり、P-1の開発が最後の山場を迎える頃、富士工業を含む五社の大合併によって富士重工業が発足する。しかしエンジン供給元として当てにしていた富士精密は資本の関係から競合するプリンス自動車の手に落ち、当然ながらFG4A型エンジンの供給も途絶することが必至となった。そのためP-1は急遽完成間もない自製L4型エンジンに切り替えて実証テストを続けざるを得なくなる、といった複雑な経緯がこのクルマの運命を未完のものとしてしまったのである。

後には「とにかく丈夫すぎて、ちっともこわれなかった」「あのクルマの乗り心地は本当に素晴らしかった。今でも恥ずかしくないものだ」といった絶賛の声だけが、わが国自動車産業史の片隅に虚しく残るのであった。


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 桂木氏はさすがにクルマ専門誌で長く活躍されていた方だけあって、間違いのない所で手堅く本書を書き進めているのが判る。述べたような富士重工業の錯綜した成立経緯も極力簡潔明瞭に取りまとめ、さてこそ本題のスバル360開発ストーリー。百瀬晋六氏を筆頭に執筆当時はまだまだ健在だった開発当事者の面々を歴訪して、その時そこにいた人でなければ語れない「ものづくり人」の喜怒哀楽を、巧みに引き出して文章へと掬い上げることに成功していると思う。

クルマ本といえども、人を生き生きと描けなければ決して良い物にはならないのである。言葉を変えれば、人が好きでなければいくらクルマに詳しくとも優れたクルマ本を書くことができない。カバ男が読者として常々抱くその印象を、本書『てんとう虫が走った日』は一層強くしてくれた一冊なのであった。


 本書を起点に、その後桂木洋二氏はクルマ人を題材とした心ある著作を多く世に問うている。また本書自体も内容を増補改訂しつつ版を重ね、最良の版は最新版という不文律がしっかりと体現されている模様。良い著者と良い版元が巡り合い良書を生んだ好例といえようか。

 

 

 

 

 

 

 

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Guts 7

 

 まだほとんど動画ストックを持っていなかった頃のYoutubeチャンネル『Guts 7』。タイトルの下に小さく”I love your guts”とモットーが掲げられていた。

どうしてこのチャンネルをクリックしたのか、経緯は全く覚えていない。粗削りな構成で画像も悪く、素人の未編集クリップと言われたら信じていただろう。けれど2分ほどの動画を観終えた時、不思議と心に温かいものが残った。

 “I love your GUTS too .”

ふとジョーク交じりでそんなコメントを書き込んだのが、数年前。ひょっとするともう六~七年は経っているのだろうか。

彼のレスポンスは”Good!”のサイン。速かった。

 

 Guts7の正体は分からない。活動範囲は広く東南アジア圏全域で拠点はマレーシア。仕事は写真家、美食家、愛妻家()。常に活発に動き回り、時にはジャングルの奥深くにまで分け入って、日本では想像できないイベントなどを動画に切り取って来る。

息子のJustinはみるみる育って、今はもうニキビの年頃すら通り越しているように見える。その間にパパのGutsはちょっと誰も思いつかないような映像表現を幾つも具現化し、可能性をどんどん拡大しているのだった。

 

 デジタルネイティヴの直前世代なのだろう、彼のタッチは鋭い。そして面白いことに、ほんの微かに外したフォーカスでウェットにふんわりとさせた空気感を、どうやら彼は好んでいるようだ。

最新の機材にアンティークなレンズを合わせてみたり、何年か試行錯誤が続いていたのを私は知っている。やがて彼は、60年代のピンナップ・ポスターのような懐かしい風合いを生み出す絶妙なセッティングを、デジタル動画の世界で最初に見出した人物の一人になったのだと思う。

それはテクノロジーの問題ではなく、我々東洋人が常に抱いている何かに対する郷愁のような、甘やかで曖昧な感情の直接的な映像表現、といったら良いのだろうか。

 

Guts7 in Youtube

 

Go ahead Guts! Boon Boon!!

 

 

 

 

 

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打鬼 Pa Gui

 

 『打鬼(Pa Gui)』。臺灣オリジナルのゲームかと思う。

 1940年代末の台湾国内に吹き荒れた白色テロの中で父親を殺され母とも生き別れてしまった主人公の林火旺が、やがて少年に育ち、自分のアイデンティティーを探して生まれ故郷の村に迷い込んでゆく。しかしその村は虐殺事件ののち廃村とされ、高僧によって厳重に結界されたはずの超級魔界と化していたのであった。というのが基本的なゲームの設定らしい。

 

 下のリンクは、ゲーム『打鬼』のエンディングに近いシークエンス。魔界・興中村で魑魅魍魎と善戦空しく魔人に囚われてしまった火旺を救うため、獰猛な守護神人である官将首がオラオラ系のパワー全開で突入するシーンなのである。ここが非常にかっこいい。

 地蔵王菩薩の廟を管理する老人が火旺の急を感知し、それまで隠し通してきた霊威を発揮して官将首を召喚する。祈祷を始めるや直ちに三柱の官将首が立ち現われ、「じっちゃんに呼ばれたんじゃあ断れねえべよ」とばかり一目散に興中村へ飛び、もう千切っては投げの大活躍なのである。そして火旺を取り込んだ魔人をシバき倒し棺桶を蹴り飛ばし、意識を失ったままの火旺の胸倉をひっ掴んでこの世に引き戻し、無事地蔵王菩薩廟へと連れ帰る。大団円。


 最後に一瞬だけ見せた老人の微かな笑顔が、やはりこのじいさん只者ではないと思わせるところなのである。この顔を見るたび、ひょっとするとこの火旺の試練というのは、最初から全部この老皮台が仕組んだものだったのではないか、などと思ってしまう。なぜならば、ここまでの強烈な体験をしながらも結局火旺は母親に会えず、孤児としてやがて老皮台の後を襲いその後の生涯を廟の管理者として(つまり同じように霊威を秘めつつ)地蔵王菩薩に仕えて世を去る運命なのである。

 つまり、白色テロによる本省人皆殺しを奇跡的に生き延びた赤ん坊の火旺に菩薩の加護を見抜いたこの老皮台が、孤児として自らの下に引き取り、自分の後継者とすべく試練を与えたのではないか。そんな風にも思えてしまうのであった。

 

 最近の臺灣では、『還願』などオリジナルなゲームの製作が盛んなのかもしれない。道教や佛教のカオスというかシンクレティズム的な民衆の精神世界を、ごく丁寧かつリアルにCGで再現しているのが秀逸である。

とはいえこうして知ったかぶりで『打鬼』を語る私自身中国語などニーハオぐらいしか解さないワケで、そこは非常に心許ないところ。当然ゲーム自体は繁体中国語の字幕しかないのだから、そのディティールなど理解すべくもないのである。なので、いわゆる実況プレイ動画というのを見て面白がっているだけなのだが、画像と音楽は言葉を越えるのであるからモーマンタイなのである。

 

『打鬼』官将首出動 in Youtube

 

 百工職魂№32『打鬼』 in Youtube


 

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騒音伝承


 梅雨が明けて、また今年も長くあつい夜の季節がやって来る。

 蒸し蒸しした夏の夜といえば、幽霊・・・。
 いやむしろ、より暑苦しいコレだろうなぁ。
 あコレじゃなかった、「コール」。キャッツコールなんていってたけどね、昔は。

 それにしてもBEETのハイスロとか、トマゼリの生ゴムグリップとか、ジジイには泣けるパーツが満載満艦飾。いまだに売ってんのかこんなモノ(笑)。
 乗り物を楽器として使う文化、これからも末永く伝承していってほしいものだ。伝え聞くところ、最近では台湾の若者にも実践者が激増しているのだとか。
 この動画の主人公も、恐らくは次なるコール職人の出現を期待して、包み隠さず秘技を公開しようとしている。その姿勢には頭が下がります。

 え、ダメ?
 ヨシムラ集合管が泣いているって、それ鳴っているの間違いじゃないすか。
 ま、ヒマネタなんで笑って許してチョ。







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