初夏逡巡

 

 随分と長く放置してしまった。

 元々はてなブログの『カバ男のブログ』は踏み台で、ここにオリジナルのエントリーを残す気は更々なかったのである。Yahoo!Blogの閉鎖で散り散りになってしまったブロガーの内、このはてなブログに落ち着いた何人かの同胞。彼らとの交流を続けるための足掛かりとして、ここにアカウントを持つ必要があったというだけのことだ。ヤフブロ当時の交流ブロガーは大半がAmebaブログに流れ、横滑り的にコミュニティが出来ている。なので私としてはアメブロにもアカウントを持ってコメントのやりとりなどしているのだが、ブログ自体はこちら同様にエントリーのない踏み台として放置しているのである。

 アメブロのように強烈な囲い込みをしないのは良いとしても、このはてなブログは全体中途半端に文芸臭が聞こえてまったく居心地が悪い。曲がりなりにも文章表現をする身には、そのフィールドは善にせよ悪にせよ尖ったところがなくてはならないのである。放置の理由は、まあそんなところだったかな。

 

 ただ、逆にこのはてなブログがそうした中途半端な「なりたかったクン」たちの世界であれば、それなり気軽なエントリーを重ねてゆくやり方もあるのではなかろうかと、最近思い直している。「南風開陣1999」とか「六福客桟」といった追想や町ネタの類をこちらにもエントリーして、共有するのも良いかもしれない。メインとなるFC2ブログ『カバ男のブログ』はおかげさまでなんとか安定してきたようなので、息抜きぼやきの類をこちらで重ねてみようか。そんな風に気が乗って来てもいるのである。

 とはいえあまり構えず舐めた気分で始めてしまうと、思わぬ所で知らずに人を傷つけてしまったり、良くない結果を招いてしまうのが関の山。それだけは不可である。なので、こちらはこちらでFC2とは一味違えた構えを取って摺り足で進まねば、とも思っている。

 

 

 

 

◆はてなブログ『カバ男のブログ』のエントリーを転載しています。今後の展開について、はてなブログの方でどう進めようかと取り留めなく綴ってみました。

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拳銃図鑑

 

 矢野庄介著『拳銃図鑑』。19619月、宝石社からの発行。B5判カルトンクロス装幀・角背、活版単色刷り本文94頁。本文のほかに頁№を振られない別葉(本文用紙の束とは別個に挿入合綴あるいは添付されるが、その書物全体に含まれていると認識される用紙)で単色オフセット印刷の口絵、および本文頁中にも古今のけん銃が大量に写真挿絵として掲載されている。

 画像の本は、恐らくこれで完本かと思われる。ほとんど繙読された形跡がなく、背文字も褪色しておらず、空気曝露による見返し紙の酸化変色すら認められない。購入後比較的短時間の内にどこか納戸のような冷暗所に投げ込まれたまま忘れ去られたのであろう。バーンファウンド・コンディションと呼ばれる状態である。


 本流カタログのエントリーで「本邦初公開のけん銃図書を公開予定」とコメントしてしまったが、その後つらつらネット検索などしてみたところ、同じ本で先行する図書紹介などがいくつも見つかった。現在休止中の『ライトニング・ウェブリブログ』などはその典型かと思う。ほかにもミステリー文学の方面から、刊行の周辺に纏わる詳しい人脈紹介を試みたブログなどもある。Amazonやネット古書販売でも過去に売られていた痕跡を沢山見出すことができた。なので前言撤回、古いけん銃関連図書として画像など公開しながらエントリーしてみたい。文章を書き直すのに梃子摺りややツギハギめいた印象となるも、無知に免じてご容赦願いたいのである。

 ついでに書いておくが、本書は借覧している。HP『廃墟』時代からずっと家蔵図書以外の紹介はしてこなかったが、今では自分の圏外となってしまった銃関係の図書でもあり、持ち主であるGeorgeの強い勧めに応じて暫時手許に置いて検分しているというワケだ。こちらもお含み頂きたい。

 

 

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 本書『拳銃図鑑』は、戦後経済の安定的な成長やTVの普及などを背景として、わが国に空前のガンブームが巻き起こっていた時期の出版物である。そして先のエントリー『本流カタログ№12』でも見た通り世にモデルガンという精巧な玩具銃はまだ出現しておらず、極初期のガンマニアにとっては真正けん銃かマテルのオモチャかという二択しか選択肢がなかった時代なのであった。当然ながら一般市民はけん銃の所持を法で禁じられており、本書では身近に触れることの叶わぬ夢、本物のけん銃だけを採り上げている。

「まえがき」に見える人名で中原弓彦に目が留まる。中原弓彦は『ヒッチコックマガジン』の初代編集長で小説家の小林信彦氏。著者である矢野氏も含め、いわゆる宝石社プロパーで周囲を固めた出版といって良いかもしれない。

 

 本文は「拳銃の歴史」と「各国の拳銃」に分かれ、歴史編では火薬の発見(発明)から筆を起こし、洋書から採録されたと思しきイラストを大量に用いながら考察を進めている。面白いのは黒色火薬の起源に就いての考察で、有名な元御物『蒙古襲来絵詞』を援用しつつ十三世紀末には「てつはう」として人工の急燃性兵器が用いられていたことを認めながらも、何故か発明の功を十四世紀初頭のベルトルート・シュワルツ坊主の伝説に帰している点である。黒色火薬が十世紀以前の中国で発見されたという今日の定説とは相当な隔たりがあるものの、61年当時の知見として読む心の余裕があれば、却って興が湧く。

 また今では専門誌ですら採り上げない原始的な点火孔式(メカニズムを持たず射手が手に持った種火を薬室に開いた小穴に直接圧し付けて着火させる方式)や種子島への渡来以前の火縄式(着火のためのロックメカニズムを備えることで両手保持のまま照準発射することが初めて可能になった)銃器についても、隔てなくきちんと解説されている。歴史編は総じて時代錯誤が多いものの、近代けん銃に至る様々な技術的チャレンジをひとつひとつ解説する点では端倪すべからざる面があって大変に面白い。

 各国の拳銃編、これは当時の現用軍装備と民間用を取り混ぜて、別葉に掲載されたおおむね一頁一挺の大きな実銃写真と並行して詳しい解説を展開している。惜しむらくはわが国オリジナルのけん銃であっても通称ベビー・ナンブのキャプションを「南部式乙型拳銃」、同パパ・ナンブに「日本最初」「甲型」などと些細な点を誤認している点。南方戦線に於けるオランダ軍からの分捕りルガーは良いとして、チャンバー上に菊花御紋章を打刻した贋物(いわゆる菊ルガー)の図版を掲載してしまった点などなど。洋書資料への崇拝偏重が主な原因と推察するものの、大東亜敗戦による帝国時代の全否定がこんな所にも悪い影響を及ぼしているのかと思うと、些か気が沈んでしまうのである。

 それでも本文の論考は、時代を考えるに相当な熱意で取りまとめた優れた作品になっている。「古くて間違っている本」で終わらせてしまうのでは軽率だ。

そもそもすでに半世紀を越えなんとするこの手の考証物を読み進めるためには、受け身な読書は禁物なのである。予め読者の側でもしっかりと勉強し一定以上の素養を蓄えたうえで、自分なりに検証補正を繰り返しながら読書をすべきなのだ。そうすることで書かれていることの真意を汲みとれ、著者の言わんとする趣旨を正確に復元理解することができる。書物としての古色を味わい尽くすことができるのである。述べたように、最新の情報が知りたければこんな稀少な本を探求せず国際出版の『世界拳銃図鑑』でも読んでいればよろしい。

 

 まあ細かいことは置いといて、個人的にはS&Wパーフェクテッド・リボルバーなど大好きな珍しいけん銃が国籍メーカー問わずこれでもかと掲載されているし、ハッピーな本という以外の何物でもない。モデルガン趣味の幕開け前夜、極初期のガンマニア連はこんな深い知識を蓄えていたのかと、吃驚できる本でもある。ここまでの造詣がベースとしてあったが故、数年後に巻き起こるモデルガンブームはスタートからいきなり驚くべき全力疾走が可能だったのではなかろうか。

 この辺りの情況は、本当なら正に真っ只中を駆け抜けて来られた当事者でもある『ライトニング・ウェブリブログ』のライトニング氏や当ブログにも時折コメントを寄せてくださる『国内規制適用外』のSunny210氏などに、折をみて執筆していただきたいものと念願しているのだが。

 

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 「最近の激しいガン・ブームにかくされ、ともすれば見失われがちな拳銃の正しい姿を認識して頂きたいために、この図鑑をつくりました。<編者>」とカバー袖に短いコメントがあった。

 文中に誤植があり、「正誤表」の小紙片が添付されている。

 そのほか目を惹くのは、例の「麻袋の上で洋書を添えて撮影された実銃」のカットが多数配されている点だろうか。このカットは本書が初出とみられ、しかも同じ小道具で多数の実銃を撮影している情況からして、出版には警察もしくは海上保安庁などの官公署による強力な後援のあったことを想わせるのであった。

 

 このエントリーを書いていて、段々私はこの『拳銃図鑑』が好きになってしまった。なんとか理由をこじつけてコイツを返さずに済ます方法はないだろうか。

このコンディションで「正誤表」まで残ったサンプルには、今を逃せば恐らく生きている内に再び巡り合うことはないであろう。

 さてこそ妙案をひねり出さねばなるまい。

 

 

 

 



 

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妖変解析

 

 『カバ男のブログ』には、トップページにだけアクセス解析タグを仕込んでいる。元々FC2ブログというのは自分で改造してゆくのが前提らしく、何もしないとアクセス解析なしの文書を素でアップすることになるのは分かっていた。言うなれば暗闇で目を瞑って歩いているようなもの。しかしそれでは周りが見えない。力一杯投げ上げたエントリーの行方が分からない。だから、せめてトップページがどの程度読まれているのかぐらいはモニターしておきたくて、去年の十月あたりに仕込んでみたのである。

 

 今年に入って文体を変えた。今まで一度も「である調」の文章など書いたことがなかった私である。しかし齢も還暦となり、矜持というかそれなりに重い文体で提示しても良いのかなと『紅白翩翻』を試しに書いて、そのまま続いているという次第。

 この文体はいささか断定的高圧的になりがちなので、その点だけは行き過ぎないよう気を付けるようにしている。また文章自体の仕上がりも若干時代を帯びた擬文語体のように化けさせられるので、この際はと努めて古臭い言い回しや慣用句を多用して老人感マシマシに作っているつもりである。おおよそ大正末から昭和初頭、最も憧憬を抱く時代の大衆文学の垢抜けないリズムに乗せて、関東弁を遊ばせられたらと思っている。なので、ネット上に現れる仮想人格「カバ男」のキャラクター、無頼さや時代錯誤、ノスタルジーなどを表現するのに「である調」は適切な文体だったかもしれない。

 「本のこと」以外のカテゴリーでは、私自身が現実世界でこれまでに経験してきたエピソードの中からブログに合いそうなものを切り出して、「である調」で懐かし気に語ってゆく。当面はこのフォーマットで続ける予定である。

 ではリアルのカバ男はどうなのか。現実と仮想現実の両界を共有する知己というのは多くもないが、察するに、彼らは『カバ男のブログ』を複雑な苦笑いのような面持ちで読んでいるのだろう。Georgeとマヒロの二人にこのブログを覚られていないことは、カバ男にとって最大のラッキーといって過言ではない。

 

 トップページのアクセスが今、ちょっと困ったことになっている。

 去年まで『カバ男のブログ』はほとんどアクセスの無いブログであった。逆に誰にも読まれない気楽さから、推敲にも画像にも時間をかけ毎回玉成の意気込みでエントリーを続けても来られたのである。一箇月でトップページのアクセスが合計20件弱だから、連続0件の時も普通にあった。

今年に入ってすぐ、毎日どこかからアクセスされるようになり、0戦が飛ぶ日はなくなった。最初の内は、「ははあ文体を変えたから何事かと見返す人でもあるのだろう」、などと他人事のように感じたものであった。三月になると、3件アクセスがあった次の日に更新もないのに30件などと、不自然な増減が目立つようになる。だが太平楽なカバ男は「段々オレ様主義の布教が進んできたぜ」などと一向気付く気配もなかった。

 五月。すでに毎日のアクセス数は二桁が当たり前となり、常時10から90の間をフラフラと漂っていた。しかし、カテゴリー別のランキングは何故かちっとも上がらずに「ずーっと更新サボっててごめんネ!2014-9-20」だの「アメブロに移行します。2016-3-5」だのとっくの昔に捨てられた残骸ブログの間で浮きつ沈みつ。アクセスとランキングの相関関係はないのかと、少しずつ違和感が増してくる。

そして今月。到頭アクセス数が初めての来訪者だけで100を超える日が毎週発生するようになっていた。それ以外の日でも、文書も投入しないのになかなか堅調に推移しているのである。先ほど見たら、今週はいきなり101件からスタートして連日200件に迫るアクセス数。桁違い。異常である。

日別のアクセスを示すダイヤリーが伸びた棒グラフで真っ赤になるのは人気ブログ以外にはあり得ない。しかし、そうかといってこの現象をいつまでも手放しで喜べるほどに、最近知恵の付いてきたカバ男は楽天的でもなくなっている。何故ならば、カテゴリーのランクは依然として件の残骸ブログどもと横並びの体たらくだからなのである。

どう考えても変だろう。毎月倍々ゲームどころの勢いではないのだから、普通に考えれば今ごろ赤丸急上昇かトップぶっちぎり、シャンパンの壜を抱えて赤いカーペットで酔い潰れていなければならないのである。してもう玄関前には執筆依頼の編集者が押すな押すなの戦争状態、おちおち外出どころじゃないハズなのである。だが実際は普段通り(いやさ自粛で普段以上)の静かな暮らし。

 「おかしい。何かが、どこかが狂っている」

そこでようやく重い腰を上げ、FC2ブログの解析機能を色々と見はじめた次第。

 

 『カバ男のブログ』突然のアクセス急上昇の原因は、別段私の文章が優れていたからでも、エントリーの内容が注目されたワケでもなかった。畢竟するところ巡回ロボットプログラム「ボット」の仕業なのであった。Googleをはじめとした検索エンジンが情報収集の道具として、ネットの世界に放ったプログラム。コイツが24時間365日休みなく仮想現実の世界を渉猟し、得られた結果を検索エンジンが収集している。そんな仕組みはインターネットの商業利用が始まった当初からあるにはあったっけ。だが、HP『廃墟』の最末期2003年前後でも、ボットは数日に一度きり思い出したように来訪しては去ってゆく、やる気なしなしのプログラムだったと記憶している。

 このボットが私のブログを毎日参照していたので、このような仕儀とは相成っていたのである。テキストの文言なのか、あるいは私が意識しない特定のHTMLタグなのか、エントリーの何かに反応したボットが執拗に来訪を繰り返しているとみえる。しかも、検索エンジンや官公署のボットなら古馴染みでもあるが、最近ではシケた弱小プロバイダーまでが生意気に自前のボットを放流しているらしい。してまたボットがボットを呼んで自励的にアクセスを急増させていることが判ったのである。なんのことはない。コイツらを差っ引いちまえば、案の定本当のアクセスなんて相変わらずのペースなのであった。

 んへへへへ(やや消沈)。

 

 まあ、これで『カバ男のブログ』を検索するとゴリ山田カバ男の次ぐらいには食いこむようになっちゃってるし、つられて何年も前に残骸化したらしい同名のブログまで上位に迷い出て来たりと笑えている。所詮カバ男族なんかそんなものなのである。

 

 幽霊の正体見たり枯れ尾花。

 季節のお題、カバ男のインターネット怪異譚。いかがだったろう。

 

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 ふと イヤな予感がして、今まで一度も使ったことのないマイクロソフトのアカウントでメールを開いてみた。


 はたせるかな、受信フォルダーには大量の「下手くそな片言の日本語メール」が。

 

 






 

 

 

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南風開陣 1999

 

 水銀柱の目盛をグングン押し下げて、巨大な低気圧が頭の上を通り過ぎるところだ。

 岸壁で幌を閉てたロードスターの中から、FMラジオの声が漏れて来た。

 海を渡って来る熱風、耐え難い蒸し暑さ。

 軍艦色の雲の塊が、沖合から猛スピードで向かって来ては背後に飛び去ってゆく。

 

 相模湾に開いた小さな漁港に波はいよいよ高まって、帰り遅れた船ががぶられながら灯台を巻いて入ってくるのが見える。

 ドシンッ!と重い湿気がのしかかり、昼飯前なのにあたりは真っ暗。

 ロードスターのアンテナをびゅうびゅう鳴るにまかせ、私は突堤の付け根でトラウザースに両手を突っ込んだまま、ピースを咥えていた。

沖の白波がどんどん嵩を増し、飛沫がレイバン・ララミーを濡らしはじめる。

 

 「オオーイ来るぞ!でっかいぞぅ!」

空を見い見い舫をまとめていた船長の怒鳴り声すら突風に吹き飛ばされる。

 心配そうに水平線を見に集まっていたガキどもが一斉に岡へと逃げてゆく。甲高い笑い声と足音。逃がすまいぞ!そう聞こえたかと思うや突然大粒の潮辛い雨が、横殴りに飛んで来た。

  車に駆け込み慌ててウインドウを巻き上げた時にはもう、自慢のダークスーツもウイングチップもズブ濡れになっている。トップを叩く土砂降りの騒音にラジオは全く用をなさなかった。


 私は狭いキャビンの中で上着を丸め、助手席に誰かが忘れたクチナシの花束の上に放り投げた。そして一文にもならない仕事に駆り出されたものだと後悔はしたものの、不思議と心が楽しんでいることにも気が付いた。


 夏の始まりに潮交じりの土砂降りを浴びて駆け出すなんて、何年ぶりだろう。

 その時、この曲が流れてきたんだ。ラジオから。


 私の夏は、そうして突然に始まった。


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新しい自動車のメカニズム

 

 『新しい自動車のメカニズム クルマのすみずみまでわかる用語集』の書影を公開。

 昭和421967)年12月の誠文堂新光社刊で、執筆編集は「自動車のアルバム」編集部。サブタイトルがやたらに長いのは・・・、まあ、これが版元のアイデンティティーなんだとでも思うしかなかろう。

 そのほか目次頁の片隅には「そうてい 栗山幸久」「さしえ 高橋壮一」のクレジットも認めることができた。B6総アート紙仮綴じ226頁。カバー掛け。本文と図版には鮮明な活版単色印刷が施されている。 

 

 クルマとクルマ社会を構成する要素全般に関する用語を、五十音順に解説する辞典。「自動車の種類と形式」から始まり「ボディの構造」「エンジン」「タイア」などなど、最終章は「モーター・スポーツ」で締めている。

 折しも1963年に鈴鹿サーキットで第一回日本グランプリが開催されてから五年、わが国モータリゼーションの爆発円熟期に出された本なのである。表紙カバーに大写しされているのも、1967年の第四回日本グランプリに於いて決勝グリッド上で静かにスタートを待つ、ポルシェ906カレラ(カレラ6)の雄姿だ。

 といってもそこは流石に誠文堂新光社。内容は非常に一般乗用車寄りのもので、むしろ市井の自動車好き蘊蓄好きに向けたと思しき用語の選定がみられる。用語に関する蘊蓄は、やはりレーシングマシンよりも構成の複雑な一般乗用車の方がはるかに多いのだ。今ではまったく忘れられてしまったような語源に関する記述をたくさん発見することができる。「ランドー・ジョイント」とか「トラクシオン・アヴァン」とか耳にして咄嗟にピンと来るようなクルマ好きは、今でも存在するのだろうか。


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 見えているこの本は、当然ながら若い頃に神保町で釣り上げた、古本。これを見付けたのは、極楽寺の友人が掴まされて来た年代物のVWビートルをなんとか走れるようにするため、メカニズムを正しく理解することから始めるべく古書店街を彷徨っていた時だったと思う。コイツを片手にガレージで何度夜明かししたことか。

 結局あのオレンジ色のビートルは、半年ばかり預かって何回かの鎌倉デートに使ったきり、葉山の路肩で一生を終えたのだっけ。持ち主も早々にどこかに片付いて、まあ付け焼刃なんてそんなものなのであった。おかげで今でも左ハンドルはすんなり乗れる、それだけがご褒美みたいなもんだったかな。 

  つくづくカバ男、この本にはお世話になった。お得意の「深夜のロイホでぶいぶい口先バトル」である。「ああそれはアッカーマン・ジョイントの設定を詰めきってないんだろう」だの「あんなクルマはドロップヘッドであって、ロードスターとは言い難い」だの滑ったの転んだの。よくもまあ飽きもせず夜な夜なやっていたもんだと思う。世はまさにバブル真っ盛り、仕事はしててもまだ部屋住みのご身分で、ヒマだったんでしょうなぁ私。

 しかしこの本は、ただチャラチャラと受け売りのタネにしていただけではない。しっかり頭の中に(一割ぐらいは)刻み付けていると思う。なんとなれば今でも京橋界隈の道端にロータス・セブンなんか乗りつけて粋がってる小僧に「んー?君はグラヴェルガードも貼らずに乗ってるのかね」なんか注意かましちゃって、全身がハテナマークで固まるのを尻目に高笑いで去ってゆく、とかね。

 意地の悪げなジジイとなったもんですぜ。んへへへへへ。

 

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 ちょっと思い立って、「名も無きダイバーウォッチ」を置いてみた。買った当初はお仕着せのG10ベルトだったが、最近ではタイからブレスレットを取り寄せて組んでいる。ケースとブレスのデザイン、およその年代を揃えてみた。

 1960年代後半から70年代前半の雰囲気、本書の時代にも近いはず。如何だろう。




 

 

 

 

 


 

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本流カタログ №1、2

 

 本流株式会社玩具部編、刊行年不明のカタログ二種、書影公開。

A4判中綴じ横型、総アート紙単色刷り。表紙には大きく『玩具ピストル 第一輯写真集』『玩具ピストル 写真集第二輯』と表記されている。

 

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 このカタログは当時の販売店向け促進アイテムとみえ、刊行元及び商品元売りである本流に関する詳しい表記はあるものの、発行年月日はどこにも記されていない。モデルガン研究ホームページとして有名な『YonYon Homepage』の鑑識によると、第一輯は昭和三十六(1961)年後半、第二輯は同三十七(1962)年前半頃の刊行と推定されている。主宰のmaimai氏はマニア歴の長い具眼の人物でもあり、この鑑識は充分に信頼できる。

 

 このカタログにモデルガンはひとつも掲載されていない。モデルガンという言葉も書かれていない。モデルガンが国産メーカーのオリジナル開発商品であると定義付けるなら、そもそもその商品自体がまだこの世に存在していない時代のカタログなのである。カタログの表記がスマートな「モデルガン」ではなく「玩具ピストル」となっているのはそのことを裏付けており、刊行年推定の一助ともなっている。

わが国で最初に「モデルガン」という言葉を玩具銃に当てはめて定着させたのは、のちのモデルガンメーカーである日本MGC協会(ニッポン・モデルガンコレクション・アソシエーション)であったとされ、神保勉氏率いる同協会自体はすでに1960年中には発足していた模様。しかし自社開発能力はなく、資金も乏しく、積極的にメーカーを目指すほどの意欲もなかったように感ぜられる。なので当初はアメリカ製の子供向け玩具けん銃「ヒューブレイ・オートマチック」を黒く着色しただけの付加価値品を、戦前の秘密出版さながらに会員に向けて細々と売り繋いでいたようだ。

この頃すでに世の中はウエスタン・ブームとガン・ブームの真っ只中。玩具けん銃への熱狂ともいえるニーズが生じていた。明くる1961年には折よく貿易の自由化が本格的に動き出し、海外製品の買い付けに一筋の光明が差しはじめた年である。天才的ガンマニアであった小林太三氏が開発スタッフとして入社、MGC協会の生産体制もメーカーを志向して一気に加速してゆくのであった。

しかしモデルガンを一から完全に自社開発するほどには資金も技術も不足していたことに変わりはなく、MGCは助走期間としてヒューブレイ・オートの改造モデルを開発することになる。機能と外観のバリエーション展開を行うことで販売量を増やし、まず出入りの資金量を嵩上げしてゆこうという方策だ。当然販路を模索、販売取次としてルートを持つ本流とも手を組むことになる。

今思えばこの時の「HIGH CLASS MODELGUN シリーズ」、S&W(アメリカ)、ワルサー(ドイツ)、コルト(アメリカ)、ベレッタ(イタリア)と全く違うけん銃をヒューブレイ・オートたった一種類のネタからデッチ上げてしまおうという無茶な企画ではあった。しかしこのやり方は上手くゆき、主にコレクター志向の成人マニアに強い印象を与えることになった。

 

この本流カタログは丁度MGCが多品種生産に転じた前後の刊行と思われ、拡大発展の様相を、掲載品種によって検証することが可能である。

第一輯は全面が輸入キャップガンの紹介で、ヒューブレイ・オートも無改造のオリジナルが掲載されている。ただ¥300高い「黒」版の表記に存在を窺わせるだけである。

 第二輯の方には、MGCによるヒューブレイの改造モデルが二種類掲載されている。独自メカを盛り込んで自動エジェクションを再現した通称コルト・スペシャルと、外観を大改造したワルサーP38。途中経過がなく早々にハイクラス・モデルガン・シリーズが登場していることに、1961年から62年へとモデルガン業界が劇的な発展を始めていたことが窺える。販売品種の変遷を見ることで、このカタログがわが国モデルガン原始時代の最初の大革新に合わせるように矢継ぎ早に刊行されたものだという推察が成立する。maimai氏の鑑識に繋がるのである。

 同時にこのカタログは、モデルガン誕生の直前にわが国のガンマニアがどんな玩具けん銃を手にしていたのかを、はっきりと証拠付ける資料でもある。ここには夥しい数の外国製キャップガン(玩具けん銃類)が、名も知れぬガン・エンスージアストによるマニアックな解説と共に、販売価格付きで掲載されている。しかも恐らくは日本製であろうカスタム用の部品類すらも、潤沢に掲載されている。

 つまり、この頃MGCを率いる神保氏が飽くまでもジャパン・オリジナルのメーカーを目指して産みの苦しみを味わっていたのとは対照的に、元来が貿易商社であった本流の社主居村方治氏は、キャップガンの輸入販売ですでに極初期のガンマニアを相手に独自の趣味世界を構築していたワケである。表現を変えるなら本流はMGCの登場に先立つ数年間、中田忠夫氏の中田商店と同様に、大人向けガン趣味の世界で大きな先行者利益を得ていたものと考えてまず間違いあるまい。同じ時代、MGCのカタログはガリ版刷りかせいぜいザラ紙に活版刷りの一枚もの。本流カタログはご覧の通り豪華総アート紙にオフセット印刷なのである。

そして面白いことに、この一見ピンハネ商売で気楽に儲けていたような本流こそが、やがてわが国オリジナル・モデルガンの嚆矢である「ホンリュウモーゼル」を生み出すことになってゆくのである。この最初にしていきなりの大型けん銃モデルガンの発売は、そもそもの提唱者であるMGC初のオリジナル・モデルガン「VP-Ⅱ」完成に先立つこと一年程度の出来事であったと推定されている。つくづく先乗りの好きな本流であった。

 

 モデルガンマニアの一般認識として、斯界のパイオニア的な存在のMGC。しかしキャップガン時代から始まった大人のガン趣味の流れを見てみれば、むしろMGCは当時の最後発ですらあったのである。貿易統制下でも太い仕入れパイプを持った本流や中田商店が作り上げていたキャップガン趣味のコアな世界。この業界に中間加工メーカーとして商材を供給して浸透することが、恐らくはMGCにとっての第一目標だったのだろう。

 歴史に「たられば」はないが、それでももし小林太三氏が神保氏のMGC協会ではなく、キャップガンの元売りで潤沢な資金と過激闊達な社風を謳歌していた居村氏の本流に入社していたら。或いは初めての上京で駅を間違えて上野の中田商店を訪ねていたら・・・()。その後のわが国モデルガン史は全く違うものになっていた。かもしれない。

 

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 この本流カタログ、正直なところ持ち主が誰なのか分からない代物なのである。まそれは大げさにしても、元々の発見者で旧友のGeorgeは私に譲ったつもりでいるし、私は私で一時預かりのままズルズルと保管中、ぐらいの認識。押し付け合っているワケでもないにしろ、曖昧な状態が続いている。


 これが私の目の前を素通りしてGeorgeの手に落ち、そこからモデルガン考古学ともいえるような面白いエピソードが立て続けに始まったのである。

その話はまた、いつかどこかで語ることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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