刃物ばなし

 

 「だんな、包丁がとげました」

 「む、随分と早いな」

 「へ。まだふた月もたってませんから、刃はみだれてませんし、かるく中砥をあてて刃がつきました」

 「名倉は掛けたのか」

「へ。荒砥のまっつぐなとこでならしてからやりました。うらっ刃も、あわせました」

 「ご苦労さん」

 「またおいしい料理がつくれます」

 「ふん。そいじゃちょっと目黒に用向きでな。出てくるよ」

 「砥石をといでから仕舞います」

 「しっかりな」

 

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 マヒロの旦那がお使い物を買いに出たところで、パチリんこ。

 今どき100均だってここまでチープな包丁、なかなか売ってないだろう。なにしろ凍らせたベーコンを切っただけで刃がめくれるったあ、どんだけナマクラなんだっつの。

それでも刃物は刃物。刃物とオンナは、たとえどんな安物でも、小まめな手入れと声掛けが大切なのである(一般論)。

 

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 下敷きにしているのは、二十年ほど前、目立て鑢を研ぎ下ろして作った手製のナイフもどき。子供の頃に港のチンピラどもがよくグラインダーでイタズラしていたものを、思い出して複製してみたものだ。

元がヤスリなので、これで腹など刺すと切り口がザクザクにささくれて治りが悪いという陰気な代物。骨に当たれば刃こぼれし、ハイス鋼の欠片は骨膜に食い入ってすぐに赤く錆びはじめる。おまけにヒルト(鍔)がないので、生半可な根性で刺しに行けば握りが滑って自分の指がキレイに四本落ちるという、まさに凶器以外の何物でもない。チンピラとはいえ、さすが昔の面々は殺意の強さが今とは違っていた。


といってもコイツはカッコばかりの複製で、まだ刃も付いていない未完成品。この先の完成は、ないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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復刻版 TAKE IVY

 

 婦人画報社、昭和481973)年7月刊『復刻版TAKE IVY』。外寸タテ245×ヨコ185㎜変形判、カルトン角背上製本。総オフセット/部分モノクロ印刷、本文139頁。


 カメラ:林田昭慶、テキスト:石津祥介、くろすとしゆき、長谷川元の三氏共著。近代メンズファッションの世界では伝説と化した写真集の、復刻版。

 初版から若干の訂正がある、とカバーに明記されていることから、厳密には全く同じものではないようだ。校合はしていない。といっても現在この版ですら探求は困難になりつつあり、半ばレジェンドだと言っても過言ではないらしい。

 

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 元々この『TAKE IVY』は昭和四十(1965)年に婦人画報社から発行されたもので、その初版は入荷するたび瞬く間に売り切れてしまうほどの人気だったという。売れた本の大半はファッション小僧たちの本棚に納まり、休日には銀座青山の街頭へと持ち出され、自慢のタネとなって消費されていったと思われる。

 内容はアメリカのアイビーリーグ(東部名門八大学)に取材した、大学生のライフスタイル写真集。当地の若者に日本では「アイビー・ファッション」と呼ばれる保守的な服装スタイルが最も浸透していた時期のキャンパスライフを、林田氏のカメラが鮮やかに切り取っている。及びこれに寄せられた三氏のキャプションや解説は、短く簡潔ながらも読者のスノッブ気分をくすぐり、かつルポルタージュとしても有効だ。その点で、本書はファッション写真集でありながらも、時代の証言的に優れた価値があるのだろう。

 実際、初刊から半世紀も経った2015年頃、突如として出版されたアメリカ版は一気に五十万部も売り尽くしたという。噂では、ラルフローレンのショウウインドウには必ずアメリカ版の本書がディスプレイされていたとか。なかなか多彩な伝説に彩られた写真集なのであった。

 

 横須賀汐入のウエスタンショップ「MiMi」、瑞穂埠頭前のバー「Stardust」、西口五番街のトラッドショップ「JAN TOKUNAGA」。この三角地帯を回遊していた1980年代の私にとって、この『TAKE IVY』はとっくの昔に終わった本だった。

 噂には聞いていたが、トクナガの山路和弘氏に頼み込んで一度だけ見せていただいたそれは、正直どうもピンと来なかったのを覚えている。

 80年代の若者にアイビーなんて堅苦しい服装は受けなかった。VAN Jacketも倒産していた。街にはカンフーパンツにレインボープリントTシャツの岡サーファーがビーチサンダルで闊歩し、ライブハウスを覗けばパンクロッカーが音程に対する反逆を叫び、そろそろ女性の前髪がサザエさんパーマになりはじめる時代。バブルに向かってなんでもアリのルールなしなし、そんなヌルヌルの時代に、男子の服装ごときにアイビー的な「ねばならぬ」もへったくれもなかったろう。私としても、この先より深く服飾美学を渉猟してゆくのなら、ファッション関係の資料ではなく文学の方面で隠されたヒントをこそ拾い集めるべきなのだろうと感じていた。

なので、山路氏にはお礼に生田耕作氏の評論『ダンディズム 栄光と悲惨』の初版本をプレゼントして、西口五番街とも疎遠になってゆくのだった。

 

 見えているこの本、実はヤフオクでの落札品なのである。いつのことか忘れたが、退屈しのぎにオクを覗いていたら、偶然に見付けてほとんど即決だったと思う。手仕舞の早い気持ち良い取引だった。ただ、値引き交渉付きでの出品に乗じて半値ほどに値切ってしまったことだけ、今でも悔いている。

 時代を勘案すればかなり良いコンディションだったし、出品者のその他のラインナップからして引退したファッション通とも推察され、新刊からずっと家蔵されていたことに疑いの余地はなかった。しかし個人オークションでは、そうした思い入れのある品だからと実質に目を瞑った価格で出品されるケースも少なくなく、この時の私も警戒しすぎてしまったようだ。

 さはあれど落掌してからスミマセンと追い銭するほど失礼なこともなく、居心地は悪かったが有難く愛蔵することにした次第。


 まあ、しかし今読み返してみると、決して悪い内容ではない。どことなく以前エントリーにした長浜治氏の写真集『あつく長い夜の島』などを思い出させる、バタ臭さが横溢しているのが良い。そういえば80年代前半の横濱には、まだおんなじ空気が流れていたような気もしている。

 元々ノスタルジーではなかった物が、時の経過とともに良質な回顧資料に変化してゆく。本書はその最適な見本に、もしかしたらなるのかもしれない。もっとも、堪能するにはアメリカン・コンサバティブ・トラッドファッションの文脈をしっかりと学んだうえで、というエクスキューズは必要なのかもしれないが。

 一冊の『TAKE IVY』を読み解くためには、まさにメンクラ風「ねばならぬ」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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The Second Impact

 

 人はいつも、同じモノを集めている。

 集めて溜めて、蓄える。それは原始時代、豊穣を願った魂の、名残りなのか。

 

 オリーブオイルも塩も、一つひとつの味は微妙に異なっている。同じ色の石ころも、カバ男の目に違いははっきりと映っている。

 見えているクルマ本にしても、同年同月同日発行の本だというのに、実はカバーのデザインが二種類あったのである。これはその実証標本。


 人はいつも、同じようなモノを集めるものなのである。

 しかし互いの差異は、数値に表すことができない。

 

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隨園食單

 

 袁枚(えん ばい)著・青木正児(あおき まさる)訳『隨園食單』。昭和三十九(1964)年六月刊の、隨園による私家版。四六判丸背、背継ぎ厚表紙、本文257頁。この版は国立国会図書館にも収蔵されておらず、関東方面ではなかなか見掛けないので、書影だけでも公開して本好き好事家の参考に供したいと思う。

 

巻頭に袁枚直筆書翰の写真版(影印)とその翻訳、および大判で隨園全景図の折り込みがある。また本文のあとには、翻訳者である青木氏が私家版刊行の縁起を書き留めた「後序」、続いて山口大学図書館が所蔵している小倉山房版(乾隆任子鐫)原刊本の全頁縮刷影印が合綴されている。『隨園食單』の邦訳書としては贅沢すぎるほどの資料を具備しており、まず過剰なほど申し分のない構成と言ってよいだろう。

 

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 『隨園食單』原刊本の周辺を簡単に整理しておきたい。この原刊本は中国清王朝時代の高級官僚・文人にして大富豪だった袁枚による著作で、中華料理の古典的なレシピ本である。

若くして巨万の富を築いて退官した袁枚は、南京にて荒廃していた隨氏の邸を庭園ごと買い取る。彼は隨氏を敬ってその庭を「隨園」と名付け、自らも袁隨園と愛称されながら、ここを根城に終生文人趣味の隠居として過ごしたという。その袁隨園が多種多様な中華料理の調理メモを、食材や関連人物の背景など織り込んで集成し、1792年頃に小倉山房版として自家出版的に上市したものが原刊本(乾隆任子鐫)『隨園食單』なのである。

隨園に於ける袁氏の賓客接遇と絶品料理は夙に知られていたので、この私家版原刊本は大変なベストセラーとなって版を重ねた由。

 

 さて、今回の題材である昭和三十九年版の邦訳本『隨園食單』もまた、書誌のスペックとしては原刊本と同じように「隨園私家版の隨園食單」と表記せざるを得ない生い立ちで、非常にややこしい。以下、本書に挟まれていた挨拶状と翻訳者による「後序」から、大まかな刊行経緯を記しておきたい。

 畢竟するところ、本書は中華料理店の開業記念に配られた贈呈本、としてよいかと思う。

 梁信昌氏率いる大阪の中国料理店「北京」で創業以来支配人を務めてきた李吉兆氏は十年を汐に円満独立し、南区(当時)で「本邦最大のスケールと設備」を誇る大型中国料理店を開業する運びとなる。李氏は屋号の考案を『華国風味』『隨園食單』で知られた中国文学者の青木正児(あおき まさる)氏に仰ぎ、齎された三つの案から「隨園」が決定された、という流れのようだ。それで、開業のお披露目と挨拶を兼ねた記念品として、名付け親として縁を結んだ青木氏の翻訳『隨園食單』が制作されたものと見える。当然新訳ではなく、六月社から出された昭和三十三(1958)年初訳を底本とし、資料部分の細部を出版目的に合わせて加減している。

つまり本書を隨園私家版と表する場合の「隨園」とは、かつて中国南京に存在していた富貴な荘園風豪邸のことではなく、大阪に出現した大規模中華レストランの屋号を意味しているのである。しかしてその装幀などは十束ひと絡げに私家版と言えるものではなく、なかなかに憎い所も多く、隅には置けない。

 

まず表紙平にカルトン(ボール紙)芯を使わず、見返し紙に直接極厚の用紙を貼り合わせて靭性を持たせた軽快な造りとした点。これを背表紙を巻いてきた色違いの製本用合皮とノド元で背革風に貼り継ぎ、美観と共に強度を持たせている点。外箱には入れず、外装には外れ止めを設けたビニールカバーを掛けている点、などなど。装幀デザインの痕跡からは、すべて本書が繰り返し繙読され、持ち運ばれ、酷使される実用書たるべきことを前提とする明らかな意志が見て取れる。料理店の開業披露で配る料理書という出版の意図を正確に理解した、装幀家の優れた造本計画なのであった。

反面、この隨園私家版に直筆書翰とか原刊本の写真版資料までも合綴する必要性が本当にあったのかな、という点が疑問であり惜しいなとも思う。同業者料理人がハンドブック的に実用するための『隨園食單』であれば、ここは翻訳された本文だけを読みやすく検索しやすいレイアウトで綴じ付けてあれば事足りるのではなかったろうか。贈られた方もまた、それ以上を必要とはしていなかったはずかと思われる。それは先行する六月社の青木氏初訳でも同じことで、そもそもの出版意図は中華料理ハンドブックであり、袁枚研究書の刊出ではなかったのである。にも拘わらず簡潔な原文に対して原著の成立背景とか翻訳の経緯などを滔々と述べ加えているのは、筋違いの愚以外のものではない。この点が、優れた翻訳を成し遂げながらも中国文学研究者としての自意識過剰に陥ってしまった青木氏の蛇足としか言いようのない部分であり、本書がその蛇足をそのまま受け継いでしまったのは残念なことだと思っている。

ほかに残念、というか興味深いというか、この版特有の面白い情況も指摘しておく必要があるだろう。それは文言の訂正なのだが、文中の中国を表す「支那」という文字をすべて「中国」と刷り込んだ極小の紙片で貼り替えている点だ。まだ出版法が存在していた大東亜戦争以前なら、思想風俗出版では稀に見られた懐かしい手法である。それは危険部分を伏字か脱字にして検閲を逃れて出版した本に、回復用の文字を刷り込んだ別冊を付録とし、読者が一文字一文字手作業でこれを切り貼りして本文を復元してゆくという気の遠くなるような手法であった。本書の場合はその出版経緯が示すように、恐らくは配本前に隨園側でその差別的な「支那」を徹底的に訂正したものと推察される。大変な労苦とは思うし、翻訳者の青木氏はこのことをご存知だったのだろうかと考えると、複雑な気持ちになってしまう。

 

 実はこの隨園私家版『隨園食單』、つい最近になってようやく入手できた本なのである。数年ぶりでネット検索「日本の古本屋」というサイトを使い、偶然にも関西の売り出しから見出すことができた。昔からの習性でまず書店には電話で一報、在庫確認と同時にブツを押さえてもらう心算だったが、先方開口一番「ああ、あおきまさるの」を聞いて不見転で即決した次第。今時翻訳者の青木正児氏を「あおき まさる」と正しく読める古書店も少なくなった。あまつさえ即答、この相手なら心配無用と踏んだワケなのである。

 これで十年を越えた執着に一区切り、気が晴れた。ちょっと嬉しい。

 

 それで、恐縮なのだが、内容に関しては岩波文庫を読んでください。ブックオフあたりなら100円で売ってると思いますから(丸投げか)

 

 

 

 

 

 

 

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レーシング・フォーミュラ入門

 

 昭和441969)年10月、JAF出版社編刊『レーシング・フォーミュラ入門』。B5判変形舛形、カルトン角背本文221頁。M.CastinD.Phipps共著『Racing and Sports Car Chassis Design』の邦訳テキストに、各書より適宜写真を取り合わせて成り立っている。

原書タイトルからも判るように、本書はレーシングマシンのシャシー(車台)設計を志すエンスージアストを読者として想定した、入門概説書である。車輛カテゴリーやクラスは必ずしも邦題にある「レーシング・フォーミュラ」に限定されてはいないが、そもそも一からレーサーを製作することを前提とした内容なので、構成の最も単純な一人乗りフォーミュラカーをベースにした記述が多くはなっている。


 手前が本冊、奥は色違いで印刷された、挿し込み共箱。ご覧の通り芸のない子供じみたブックデザインながら、中身はどうして1969年の出版物とは思えないほど濃厚で読み応えがある。私が趣味のフォーミュラ・レーシングに携わっていたのはかれこれ四十年ほども前のことだが、御殿場あたりのコンストラクター(レーシングマシンの設計/製作会社)を訪れると、製図台の脇などに普通に転がっている本だった。

 そのような用い方をされてこそ真価を発揮したものなのかもしれない。

 

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 巻頭に当時の最先端マシンであるロータス25(モノコック・コンストラクション)と同18(ミッドシップ・エンジン)の透視図が、大判の別紙折り込みとなっている。続いてオフセット・モノクロ版の口絵二十頁には内外コンペティション・マシンの近影多数。同じ時代のインディカーやF2マシンなどマイナーなカテゴリーの車体まで広く網羅されており、最近の視野狭窄的な専門誌ばかりに慣れた目には、見て楽しい。ちょっと面白いのは、本文が何故か時代錯誤な活版刷りで、しかも文芸書のように鮮明で丁寧な印刷が行われている点である。

その本文は第一章「レーシング・マシンの変遷」から第九章「FIA競技規則」までの章建てで、各章毎に順を追ってシャシー各部の解説が進んでゆく構成。就中白眉となるのは本文の過半を費やしている第3章「シャシー」第4章「サスペンション」で、非常に力の籠った詳しい記述が続きながらも、構図を吟味した図版が理解を助けてくれる。まずツインチューブ・ラダーフレームから順次レーサーの鋼管フレーム発達史、次いでそのフレームを浮動懸架するサスペンションの形式別解説がイラストや写真と共に展開される流れは、自然である。原著者は飽くまでもコンペティティヴなレーサーの製作を念頭に記述しているため木骨フレーム時代のプラットフォームに関する記述はないものの、鋼管ツインチューブ・ラダー → マルチチューブラ → スペースフレーム → ツインスパー・コンストラクションとマシンの高速/高出力化に伴うフレーム構造の変貌が直線的な流れで示されてゆく。反面、同じスポーツカー・ボディでも絶対的なパフォーマンスの向上に寄与しないスーパーレジェーラ工法(ボディ外形に沿って細いワイヤーで作った骨組みに外皮パネルを貼り付けてゆく、ねぶた祭の山車燈篭のような工法。モノコックに似ているが、飽くまでも走行応力は下部プラットフォームが受け止める構造)などは完全に無視されており、なかなかに鋭いのである。

 また当時の最先端素材であるF.R.P.(ガラス繊維強化プラスチック)やアルミ・ハニカム・パネル(蜂の巣状構造合板)などにも、辛うじて触れているところが時代を感じさせる。

 

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 この本の値段は¥1,300と表示されている。1969年の、社会的にはなんら価値を認められないクルマ趣味の本である。当時の価値感を推定するため、試みに書架から現在でも伝説的に語られるクルマ本何冊かを抜き出して、近い年代の類書が幾らぐらいだったのかを見てみよう。

荒地出版・196811月刊、アルフレッド・ノイバウア『スピードこそわが命』¥550

八重洲出版・昭和四十四(1969)年五月刊、ケン=ハーディ『スターリング・モス 命ぎりぎり』¥700

三栄書房・昭和四十四(1969)年七月刊、滝進太郎『走れ!レースビジネス』¥380

八重洲出版・昭和四十四(1969)年十月刊、田中健二郎『走り屋一代』¥380

山海堂・昭和451970)年11月刊写真集『レーシング 二村保フォトエッセイ』¥780

こんな中での¥1,300という値付けはやはり格段に高く、普通のクルマ好き程度なら書店で逡巡し、多くはそのまま踵を返してしまうレベルの本だったのではなかろうかと推察する。


流石はJAF、本を出すにも一々高飛車なのであった()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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