クルマで見抜く性格と運命

 

 野本靖士『クルマで見抜く性格と運命』。199910月アスペクト刊。四六判無線綴じ、本文277頁の、ごくごく平均的な軽装本。

 バブルが弾けて90年代も大詰めとなれば、文芸書ですら折丁も作らずロフトで売っているメモ用紙みたいな製本法が当たり前となっていた。貧すりゃ鈍す。外形に隠された実質に、価値が認められなくなりはじめた時代。まして装幀マナーなどテンから気にしないクルマ本の世界なら、この不景気に本を安く作って何か問題?といったところだったろうか。


 書影は家蔵書で、どこか環八あたりのクルマニア系書店で新刊を買い、一読後は壁紙代わりで書架に挿しっぱなしにしていたものだ。二十年もカンカンに陽の当たる書架で紫外線に曝露を続けていたため、もともと色鮮やかだったのに、抜き出してみたら見事に背表紙が褪色しきっていた。なので今、ちょっとブルーになりながらのエントリー。

 

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 帯のコピーにもある通り、「人は自分と同じ性格のクルマを選ぶ!」が本書の主張であり、全編を貫く骨太wなメインテーマといって良いだろう。とはいえよくある血液型性格診断などの与太本とはちょっと違い、意外にも一種の恋愛ハウツー満載な楽しい内容。コレコレな性格(タイプ)のクルマに乗るドライバーにはシカジカな性向性癖があり、そんな野郎と結婚したらこんな人生が待っているぜ、といった流れで読者を面白がらせてくれる。だから図書館で眉間に天知茂みたいな皺を寄せながら読むというよりは、営業の合間にドトールでそそくさと拾い読み。そんな気楽な扱いが似合っていたのかな。

 ただ、二十年前の本なので、当然出てくるクルマは忘れ去られたような車種ばかり。いきおいどうしても「ラウム?どんなカッコしてたっけ。ん~ラウムラウム後光の擦ぅり切れ、あそれ寿限無か」なんてアホな自己ツッコミを入れながらの読書にならざるを得ないのであった。ほかにもプログレ、センティア、ウィンダム、セフィーロと遥か昔に消え去ったブランドが、当然だがバリバリの現役車として多数採り上げられている。ああこんなクルマが二十世紀の終わりに走ってましたっけと、まあ私のようなジジイにとっては懐かしくもあるが。

しかし、親も自分も平成生まれなんていう世代にとって、本書はまったく異世界を見る思い。そもそも

「パパ、スポーツカーって何に使うの?どうしてみんなで乗れないの?」

という息子の疑問に大人が誰一人として答えられない有様なのが、今のクルマ事情なのであるからして。いやまごまごすると同じ子供が

「昔はクルマを自分で運転していたの。どうして?AIなかったの?」

なんて怪しからん質問を傲然と言い放つ世界が目の前に迫っている。本書が書かれてから二十年後の今日、クルマ好きにとって世界は実に実に嘆かわしくも、頼りないものとなっていたのである。

 

これは命を持たないクルマと生身のドライバーを互いの「性格」で結びつける世界初の研究書、なんて決めつけてしまうとSTAP細胞はあります的で剣呑か。本書は曲がりなりにもクルマ本なワケだから、では血液型診断の本が与太でクルマ人格診断は与太じゃないのか掲載したデータは誰がやっても再現可能なのか、なんて目くじら立てて詰問してくるような野暮天には向いていない。チャラチャラしつつもオヤジギャグ連発な文章に、適度にほどよく心の中でツッコミを入れながら読み飛ばしてゆくメルヘン、とでもしておくのが無難なところだろう。

 

 西暦2020年。今の眼で見て完全なる過去の遺物となった本書、よくよく読み返してみて意外や私はあの頃と全然違う面白さにも気が付いた。たとえば文中インターネットを始めてみようかと躊躇うお父さんとか、わざわざ三崎までオンナを乗せて寿司を食いに行くSUVオヤジとか。失われた十年と言い条まぁだバブルの名残りを忘れられない、クルマ馬鹿な男の生態を本書では随所に見出すことができるのだ。

 また「CDからダビングしたカセット」をカーステで聴く女、車間距離が近づきすぎると自動でブレーキが利くレーダー(!)などの「ハイテク」装備とか、読み進む内に自然と涙が頬を濡らす懐かしいフレーズの数々。フラッシュバックする、当時の記憶。嗚呼、シャロン・ヴァルディ今頃元気でやってるかな。イタリアに料理の勉強に行くって言ってたけど。向こうで金持ち捕まえて幸せにやってりゃイイけどな・・・。

・・・ハッいかんいかん、おぢさんすっかり涙もろくなっちゃって。

 

いうワケで、『クルマで見抜く性格と運命』。まあそうゆう楽しみ方も(今なら)できる本だったという、再発見の一冊なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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たった一度のポールポジション

 

 一志治夫著『たった一度のポールポジション』、19893月、講談社刊。

装本は四六判・カルトン溝付き丸背表紙、本文282頁。文芸書として見れば些かお寒い仕立てと言えようが、デザインも製本もセオリー無視で無茶苦茶なのが当たり前の自動車関連図書の世界では、それなり隆とした風采といってよいかもしれない。今回書影として掲げているのは、カバー帯付きの、オリジナル初版極美本。奥はスペック調査用の重刷副本である。

 

 若くして旧・富士スピードウェイ最終コーナーに散った、レーシング・ドライバーの高橋徹に関するルポルタージュ。HP「廃墟・自動車図書館」で本書を採り上げた当時、公刊された唯一の伝記と解説したが、情況は現在でも変わっていないものと思われる。ただ、ほかに極々少部数ながら遺された親族を中心として制作された私家版写真集が、書籍として存在していることを贅言しておきたい。

 

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 「廃墟・自動車図書館」で本書のリーフレット(廃墟の造語で、書籍データベース用の小サイト)を公開して半年ほど経った頃だろうか。私は見知らぬ発信人から一通のメールを受け取った。開いてみると、そこには本書『たった一度のポールポジション』を採り上げたことへの感謝の言葉とともに、ウェッブ上で本書に関する記述を初めて見出した喜びなどが熱く迸るように綴られていた。そしてその言葉使いは礼儀正しい中にもどことなく少年じみた拙さの残るもので、文章の流れから発信人は高橋徹のごく近い血縁の子弟かとも思われた。

 しかし、残念なことに私には彼の言葉を最後まで読み通すことができなかった。その文章は、唐突に中断していたからだ。彼の文章はタイトル欄に綴られており、タイトル文字数制限をオーバーしたために途切れてしまっていた。推察するに彼は、ネット上で初めて本書に関するサイトを発見した感激のまま、直ちにHP「廃墟」宛のメールフォームを起動、カーソルの位置をたしかめずテキストを打ち込んでしまったのだろう。

当然私は落ち着いてもう一度メールを送ってくれるよう、彼に返信しようとした。しかし制限文字数を突破したメールにそのまま返信することは何故か不可能で、プロトコルベースでソースを調べたり幾つかの悪あがきをしてみたが、結局送信者のアドレスに直接返信することはできなかった。ソースにあるアカウントと思しき文字列に宛てたメールも全てリダイレクトされてしまえば、文科系のネッターである私にはもう、なすすべがなかった。

ハードウェアを含め、まだインターネット環境は今よりもはるかに原始的かつ不便だった、1990年代の終わり。メール一通といえども、送り手にも受け手にもスキルが不足していたのだと、あきらめる外に方法はなかった。


なので今、およそ十五年ぶりでこの彼に返事を書こうと思う。そうすることで老い先短い心の棘を、またひとつ取り去って終わらせたい。

 


 

あのときの君へ。 


 君はまだ、あのメールのことを覚えているだろうか。私はあれからずっと、君に返事を書けなかったことを残念に思っていたよ。今、時を遡り、改めて君にお礼を言いたい。「廃墟・自動車図書館」へようこそ。

 そして見知らぬ主宰者・廃墟庵主への勇気あるメールを、心からありがとう。


 まだ年若だった君はきっと、熱い心のこもったメールに一言も返事を寄越さない廃墟庵主というのは、冷たい人物だと思っただろう。或いは誠意のない上辺だけの人間と、恨みに思っていたのかもしれない。釈明をする気はないが、でも、あの時の情況だけは理解しておいて欲しいと思う。そして一日に1000アクセスが普通だったサイト「自動車図書館」を主宰する者として、ウェッブ図書館の矜持というものを少々スクエア(窮屈)に考えすぎていたことを正直に認めたい。あの時フォーマットなどに拘らず、リーフレット「たった一度のポールポジション」に加筆してでも君に、メールが欲しいと伝えることが必要だったのだと。

 その後世紀が変わった直後から、HP「廃墟」とプロバイダーのサーバーはパワフルかつ執拗なクラッシャーの攻撃に、間断なく悩まされることになる。やがて「廃墟」の生みの親である私のPCmarble 01」までもが標的となり、最後の壊滅的な攻撃が始まった瞬間、全データは改変不能な状態で凍結保護され、なんとか生き延びた。そうして私はネットの世界を離れ仕事に没頭し、形骸化した「廃墟・自動車図書館」だけがウェッブ上に残ったというわけなんだ。


 君はあの頃、高橋選手についてどんなことを考えていただろうか。

 あれからずいぶん時が経ち、私もずっと家族のPCに寄生しながら、つまらんブログなど書いて過ごしてはいる。歳を取り、太り、頭も鈍くなってきた。でも、レースとかこの本に対する自分の気持ち、全然変わってはいないとも感じている。

 世界のトップカテゴリーに上り詰めたチャンピオンレーサーに憧れるのと同じくらい、いやある面ではもっと強く、これからという刹那にバーンナウトしていった多くの才能を悼む気持ちを持ち続けているよ。高橋選手と同じ時期に私もレーサーだった友人を、富士の100Rで失った。だから、野望に燃えて命を極限まで燃え上がらせていた男を突然の死に奪われることの衝撃や虚無感、少しは理解できるつもりでいる。

個々の事故原因とか社会に及ぼす影響とか、正直なところ、私はあまり考える気にならなかった。もっと単純に、モータースポーツに於ける死。コースのどこかで大きな音がしてレーサーや周辺にいた人たちの生命が断ち切るように失われていったという、曲げられない事実。町の暮らしでは絶対に直面しないようなその悲惨さについて、よく考えて自分なりの解を得たいとは思っていた。そうすることで、悲しさに立ち止まることなく、踏み出せるのではないか。乗り越えられるのではないかと思っていたんだ。

あのメールをくれた頃、君は高橋選手の死を乗り越えられていたのだろうか。自分なりの答を、手にしていたか。この返事を、あの時の君に読んでほしかった。


 こんな話を君としたかったんだ、廃墟庵主は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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六福客桟

 

 

 台湾の街角で撮った一枚。

 

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 「ここでスピッティングしたりビンロウの噛み汁を吐いたりしないでください」と、書いてある。

 同じ文言が二行繰り返されているようだが上の行は繁体文字、すなわち正統な漢字で書かれている現地人向けの警告。下は画数を減らして読み書きの便を図った簡体の中国文で、大陸の中華人民共和国で通用しているものだ。

つまり、今や正式な漢字を読めなくなってしまった中国人民の旅行者が「漢字で書いてあるから読めなかった」と言い訳しつつビンロウの真っ赤な汁を吐き散らしてゆくのに業を煮やした商店主が、この場所に敢えて二行書きで警告を掲げているというワケなのだ。

同じ中国人なのに一切の思いやりとか忖度とかを期待しないこの毅然たる対決姿勢が、今の台湾と中国を取り巻く空気を表しているのかもしれなかった。

或いは一種のブラック・ジョーク。

 

 ここは台北のビジネス中心街である中山区松江南京路という町。ご多聞に漏れず台湾の町中も禁煙が徹底され、なかなか窮屈になってきたらしい。

「っかしいな、この道まっつぐ行けば看板が見えるはずなのに」

なんかぼやきつつ街角でピースのケムなど噴き上げていたら、途端にダッシュで駆け付けた露店のオバサンから凄い剣幕でまくしたてられる有様。これが品川だったらすぐさまハマ弁で徹底的に逆襲できるのだが、そこは西も東も分からぬエトランジェ。ちくしょー!と思いながらもまだ長いままの煙草を足元に叩きつけるのが精一杯とは情けない。

もうとにかくココはと思う場所には例外なく「禁止吸煙(禁煙の意味)」の殴り書き。これがボディーブローのようにじわじわと肺に効いてくるのだ。

 そうした環境なので、なにげに店の前などに置かれている灰皿は非常に有難かった。その思いは地元で暮らす面々も同じらしく、路地などプラプラ泳ぎまわっているとそれらしい喫煙場所(決して吸煙の表示はない)の周囲で同じ顔と出くわすこともある。

 どこかのホテルの裏口で朝ライターを貰ったコックと夜再び顔を合わせ、「おお、YOU今朝はシイシェイニイだったな。そこのセブンイレブンで買ったもんだけど、まあこの飴もらっつくれよ」なんて、嬉しくて自分でも何語だか分からない言葉でコミュニケーションなどしてしまう。

 

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 そうして言葉も通じず地図も持たず、スマホとイージー・カード(台湾の交通系ICカード)だけ持って台北の市内をうろつき回って来た。

 いい線まで追い詰めはしたが肝心の探し物「樟一木造眼光娘娘之神像(くすのきいちぼくづくりがんこうにゃんにゃんのしんぞう)」は、結局見つけられずに終わった。悔し紛れでもないが、故宮博物院で中国人団体客にぶうぶう文句を言われながらも「汝窯の雨上がり」の前で30分も水盤と睨めっこしたのが、眼福といえば眼福だったかな。

 次回は、がむばろー。

 

 しかし、中毒性のある檳榔が良くて煙草はダメというのは、どうなのだ?











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