中田商店製「南部14年式」文鎮の回想になります。
当ブログに於ける中田製文鎮のエントリーはすべて今から四十年ほど前の記憶とメモに基づいた文書記事ですので、画像は一切ありません。また好き嫌いがありますので、モデルによって記憶に遺漏粗密があります。敢えてネット情報などで補完せず思い出すまま記述しました。
お気付きの点やご要望などありましたら、是非コメントをお願いします。
文鎮発売当時の中田商店では、帝国軍用十四年式けん銃のことを広告で執拗に「南部14年式」と表示していました。
帝国陸軍の制式けん銃にこの表記は絶対あり得ないわけで、それは中田氏も六人部氏も分かりきっていたはずです。大東亜戦争の実体験者ですから。
なのに敢えての「14年式」。ちょっと理解に苦しみます。
バカっぽい表示ですし根拠が判りませんから、当エントリーでは採りません。
手許にこの南部十四年式文鎮があった当時、今に較べたら遥かに情報が乏しい時代でした。もし当時今ほどの知見がカバ男にあったなら、まずこの文鎮はオリジナルの原型だったか、或いは「南部14年式文鎮」が原型になったのかを追究していたと思います。
文鎮の原型に文鎮を使うって、ああまたLytle文鎮のことだろう、ですか。
違います。Lytle文鎮には南部式大型けん銃(パパナンブ)はありますが、十四年式はラインナップされてません。
実はこのアルミ文鎮に先立つことおよそ二年、1963年頃に中田商店は初期型南部十四年式の文鎮のような物体を、ごく短い期間販売していたのでした。Gun誌には「火薬の臭いが嫌い」で無作動にしたなどと苦しい言い訳を展開していたこの文鎮、要するにマガジンの抜き挿しぐらいしかできない出来損ないの中途半端な半モデルガン・半文鎮。 1965年鋳物文鎮シリーズは手近の在りものを原型にラインナップの数で勝負をかけた泥縄企画だったので、現在の知見から振り返れば、この半文鎮をそのまま原型に利用するぐらいは平気だったのかとも思えました。
今ここで回想する中田十四年式文鎮には幾つか記憶に残る特徴があったのですが、中でトリガーピンの位置が妙に前寄りにモールド造形されていたという点があります。実銃ではあり得ない位置にありました。
ネット上に残る1963年の半文鎮画像にそれはありません。また全体に華奢でカバ男の記憶にある鋳物文鎮とは相当に隔たったフォルムです。これが二年後にアルミ文鎮の原型になった可能性は、かなり低いと今では思っています。
「中田文鎮A群」すなわち、左右単純分割の鋳型では決して表現できない造形部分を持った文鎮のひとつでした。その部位は、同じA群のガバと同じくエジェクションポートになります。
実銃の場合、南部十四年式けん銃は左右の中心にエジェクションポートを持っています。文鎮ではこのエジェクションポートから覗くボルト、エキストラクターを共に段下がりの造形としているため、左右に引き割る鋳型では不可能な凹状断面の造形が見られたのです。
この部分だけ別の型を併用したような、鋳物として見るかぎりちょっと工法が推し量れない違和感に溢れた造形でした。
以下、メモを基に記述してゆきます。
全体は略実銃大でトリガーガードの小さい初期型、コッキングピースも三段のラジエーターフィン型です。グリップフレームやバレルが細身で軍用けん銃の凄味はありません。
フレーム後端にはランヤードリングの造形あり。ただし穴は明いていない単なる突起ですから、ランヤードは通せません。その代わり頑丈なので、折れる気遣いはなかったです。
カバ男は僅かに一個持っていただけですから、すべての十四年式文鎮が同じとは断言できませんが、バレルがちょっと右を向いていました。全体スッキリした良い造形なので、この点は大変惜しかったです。
例によってまず艶のある半艶消しブラックで全体を塗り潰し、その上から赤茶色の艶あり塗料でグリップパネルを手塗りしています。グリップパネルはフレームとの境にモールドがないため、巧みにフリーハンドで塗り分けてありました。
左右のマガジンキャッチボタンは他のモデルと異なり、グリップパネルを塗った塗料のそのまた上からブラックを手塗りしていました。ルーペで見ると下から黒→赤茶→黒の三層になっているのがよく分かりました。
実銃ではアルミ地肌のマガジンボトム、この文鎮はアルミ素材なのでそのまま塗らずに置けば良いのですが、驚いたことにこの部分はわざわざシルバーの塗料を上塗りしていました。メモではここもルーペで色の層を数えています。
つまりこの十四年式文鎮には、半艶消しブラック、艶赤茶、艶シルバーの三色使いがされていたワケです。塗り分けは巧みで、色の混じりは見受けられなかったような記憶もあるのですが。
簡易なマスキングテープが入手できなかったか、そういう資材は高価で手塗りの方が安上がりだったのか、とも考えられました。
ここに1965年という時代性を読むことができるかもしれません。
リヤサイトの照門ノッチは目立てヤスリのV型、前庭部分にワルサーP38文鎮同様な後加工がされています。グリップパネルの滑り止め溝は左22本右24本。マガジンボトムのツマミにある溝は左右共に9本でした。
形状表現から追うかぎり、実際の南部十四年式けん銃では存在し得ません。
奇妙な後加工がありました。この文鎮の左右側面にはフレームとトリガーガードの部品分割線がモールド表現されており、このモールド線同士を繋ぐようにフレーム前側にわざわざ分割線をヤスリで彫ってあったのです。
こうすることによって前から見たときのリアリティがちょっぴり向上するのかとも思いますが、文鎮自体がダルダルな外形なのですからして、そんな筋一本どうでもよろしい。手間の割にやる意味を感じにくい変な加工でした。
こうした後加工はメモにある初期中田文鎮のラインナップ中、十四年式文鎮にしか見受けられません。結局当時のカバ男は南部式大型けん銃が入手できずじまいでしたから、もし現物を見られれば、そちらの方にも同様な後加工があったかもしれませんが。
カバ男の持っていた十四年式文鎮は非常に丁寧な仕上がりの、良いコンディションのものでした。おそらく極初期のロットかと思われます。したがって、後期ロットでもこのヤスリ加工がされていたかどうかは分かりません。
刻印その他のモールド表現は次の通り。
◆レシーバーフレーム左側面
「(半円状)→ 安 十四年式」
◆レシーバーフレーム右側面
「昭15.3」
※左側面の半円状→左側には「火」字がセーフティレバーに隠された造形表現あり。製造所記号やシリアルナンバーの表現なし。
塗料の剥離した隙間(いわゆるゲーハー・ポイント)から覗く地金の色は暗く、ルガーP08文鎮の材質に近い印象でした。
五個ほど持っていた同じルガーP08文鎮にしても、アルミらしい明るい銀色地肌のものもあったので、金属素材の質はロット毎に不安定だったのかもしれません。