写真集 SPORTSCAR WORLD

 
 本流発行、写真集『SPORTSCAR WORLD』の書影になります。下敷きにしているのは同じ写真集の本冊で、つい最近入手したカバー欠損の内容確認用サンプルです。「廃墟自動車図書館」は、クルマ本の稀覯書は副本を架蔵して書物研究を進めることをポリシーとして、常時蒐集を続けています。
 解説・杉江博愛(すぎえ ひろよし)、レイアウト・式場壮吉(しきば そうきち)。出版は昭和三十六(1961)年十月、と奥付の表記にありました。A4判本文総アート紙印刷80頁余。
 
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 実質的な著者は杉江氏となるのですが、これはのちに『間違いだらけのクルマ選び』で一躍有名になった自動車評論家の徳大寺有恒氏の本名です。氏は成城大学の学生時代、友人の式場氏から紹介されて、青山の本流という洋書の輸入卸会社でアルバイトをしていたとのこと。
 畢竟本書は、この本流に出入りする自動車マニアの学生二人によって企画出版されたもの、ということができると思います。自動車関連図書には珍しい、一種の若書き(有名人や大御所が無名時代に出版した著作)ですね。

 述べたように高価な紙をふんだんに用いた、当時としてはぜいたくな成り立ちの写真集でした。
 巻末の「編集余談」から想像できるのは、杉江氏がせっせと海外の自動車メーカー宛に写真所望の手紙を書き、並行して式場氏が余白をたっぷり取ったセンスの良いレイアウトを進め、送られて来た写真(すなわち各メーカーの公式パブリシティ資料)と杉江氏の解説を合体した、というような進行だったようです。
 今の目で見ても非常に上品なレイアウトで、杉江氏の文章もまさにクルマ好きが憧れのスポーツカーを語る風で微笑ましいかぎりです。まず環境問題、次に経済情勢ありきのさもしい文章が溢れている現代のクルマ専門誌とは、まったく違うエレガントさが本書全体から漂い出ています。
 昭和三十六年ですからね。
 
 この本から三十年余りのち、1993年出版の『ぼくの日本自動車史』に於いて、大御所評論家となっていた徳大寺氏は当時を振り返るために一章を割いています。見出しに曰く「ぼくの書いた『スポーツカーワールド』は、いま思い出しても恥ずかしい」。
 相当に恥ずかしく思っていたみたいです。中には「ひどい原稿で顔から火が出る思い」とか「人に見せられたシロモノじゃない」「門外秘」などの自己評価を並べ、自分を厳しくムチ打っています。
 たしかにやや硬い表現や誤植脱字も散見されます。また今では普通に「DOHC」なんて書かれるメカニズムなんかも「2OHC」なんて、同じ時代の自動車用語辞典にすら載っていない妙な表現をしていたりもします。
 にもかかわらず、というか逆に今の目で見て初めて、丁寧に良く作られたエンスージアスティックな写真集のように私には思えるのです。なによりも、読んでいて楽しいですから。
 
 いずれにせよ、昭和三十六年。わが国にはサーキットのサの字も存在しておらず、大手自動車メーカーの技術者が一介の学生アルバイトでしかなかった杉江氏に「では、スポーツカーとは一体どんなものなのでしょう」なんて禅問答のような質問をして来る時代でした。
 自動車は、まだ夢がいっぱいに詰まった明るい未来の機械だったんです。
 
 余談ですが、本書『SPORTSCAR WORLD』の発行者は居村方治とクレジットされており、この居村氏が本流のまさに経営者です。相当に濃いキャラの人だったみたいで、『ぼくの日本自動車史』にもその人柄が活写されています。
 もしかしたら居村氏は戦前、あるいは戦後動乱期、昭和初頭に一世を風靡したエログロナンセンスブームで官憲と鋭く対峙した風俗編集者の誰かと、昵懇に交流する機会を持っていたのかもしれません。
 このことはいずれ、自動車図書とは違った観点から一考することになるでしょう
 
 
 
 
 
 
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謎の写真集

 
 五反田で階段を駆け下りて地下鉄浅草線のホームに立ったのが、多分昼過ぎ。もしかしたら午後一時になんなんとしていたかもしれません。
 宮城(きゅうじょう・皇居のこと)はさんだ向こっ河岸とはいっても目と鼻の先、なのに二回も乗り換えて神田は神保町の駅で電車を降りたのは、それこそ一時を回っていたでしょう。万年工事中の洞窟みたいな通路を通り、出口が分からずうろたえるサラリーマンをかき分けながら岩波ホールの階段上って、地上に出るのがちょうど神保町交差点の真ん前です。
 ああ、空が青いです。
 そっから第一勧銀、じゃなかった今はスーツ屋さんを左に見ながらぐるっと回って靖国通りを俎橋方向へと急ぎます。寒いですからね。
 
 「ココ曲がる」なんて矢印にそそのかされるまま左に折れて、やってまいりました。軍モノ古書の大看板、グデーリアンの自伝から北支十九式自動拳銃開発秘録、ヤクトパンターの運転マニュアル、なんでもござれの◆◆◆書店です。ガラス戸の外から見ると・・・、おおオヤジ本日も不景気な顔して帳場に立ってるね()
 ガラッと入ってすぐ右折(直進すると本棚に衝突するから)。またすぐ左折(同)して左の棚を上から順番にチェックしてゆきます。この辺は洋書がたくさん横積みになってるんですよね。だから首を思いっきり曲げて背文字を読まなきゃなんない。で、辛抱強く下まで見てきてハッと首を真直ぐ戻します。かすかにポキッと音がしました。
 『世界拳銃図鑑』『世界兵器図鑑アメリカ編』などなどなど。国際出版の図鑑類ほとんど全部揃ってるじゃん!いや懐かしい。今は一冊もないけど、読み耽ったよなー中学時代。今時ネット上で新発見なんか騒いでるアレコレも、実はとっくの昔にこれらの中で紹介されてたりするんだよなー。
 
 で、しかしこれはと思う本の一冊もなく、十分ほどであえなく退散。どうゆうことっすか。
 実はコレにはちょいっと訳がありまして、どうも軍事関係の本を商う古本屋にはクルマの古本も同じくらい並べてあるケースが多いようなんです。逆もまた言えますがね。
 まだ若くて稀覯書や限定本ばかりに目が行っていた頃、懇意だった古本屋さんから、軍モノと自動車機械モノは同じ市(古書業者だけが売り買いする古物市場)でやるんだよと聞きかじったような気もします。
 市会というのは我々普通の読者が書店で本を買うのとは違い、本をひと山に積んで出品し、買う方はその山ごとに値を付けてゆくそうです。で、その山の中には軍事、機械、機械もんの一カテゴリーである自動車などが混在している。つまり、市で仕入れをするかぎり、軍事専門店であろうがクルマ専門店であろうがそればっかしを買い込むことができないんです。
 もちろん自分の専門カテゴリーにストイックな店主なら、落札した山から欲しかった本だけ抜いて、残ったのをまたひと山に積みなおして次回出品するなんてワザもやるでしょう。でも老練な店主なら、「なにこれしきの端本、店先に出して捌いてやるさ」とそのまま持ち帰り、ひと塊に並べちゃう。
 そうゆうワケなので、自動車関連の本を探そうとしたら、軍事図書を主に商う古本屋にも目を配っていた方がよいということになるんです。
 
 ということで早速◆◆◆を後にして、路地渡ったお店の壁に張り付きます。
 この店名前は憶えないんですが専門は芸能関係で、店内には戯曲シナリオの類がぎゅうぎゅうに詰まってます。ここも古くからの専門店ですよね。
 その副業といったら聞こえは悪いですが、脇道に面した外の壁には展覧会図録やら文庫本やら専門外の本を、田舎の野菜無人販売所みたいにたっくさん並べてる。キレイな本が多くて値も欲張らないから、いつでも人だかりですね。で、私も例によって古典文庫の面白そうなのないかな、とサラッとチェック。
 もし欲しい本があればそれを持って右の方に歩いてって、お店に入ってからお金を払うというシステムです。
 おいおい生き馬の目を引っこ抜く東京でそんな無防備なことやってて大丈夫なのかなんて、そりゃ野暮っつもんです。ワタクシ二十歳前から四十年もこの町に通ってますが、この壁から本を抜いてそのまま左の方へ行っちゃった人なんて見たことないすから。これこそ東京の本読みの心意気、というヤツですよ。
 
 で、欲しい本がなければこんな寒い道路っぱたに長居は無用。すっと立ち上がってまた靖国通りに戻り、今度は武道館に背を向けて駿河台下の交差点目指してすたすた歩きはじめます。刻々と時間が迫ります。
 いえ、用事があるとか腹が減ったとかではないんです。日が暮れる。
 古本屋っつのは店が北向きなんですよね。なんでって?南に向けて店を開いたら、本が日焼けして売れなくなっちゃうじゃありませんか。だから神保町の古本屋も、元々は靖国通りの南側に店を並べていたんです。
 今私は、その昔ながらの店々を昔の通りに巡っているというワケです。だから日陰。寒い。帰りたくなる。
 振り出しの神保町交差点を渡ってぐるぐると彷徨すること小半時、またまた一軒の店に入ります。
 店主の性格そのもののように薄暗い入口には、今度は◆◆◆と反対に軍事関係の雑本が積まれています。ということは、店内にあるのは?そうそう、この陰気きわまりない◎◎書店が専門に扱うのは、クルマやバイクの本ばかりなんです。んへへへへ。
 
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 ああ、日のある内に帰って来てよかったと、五反田駅の階段をハアハア言って上ります。出たとこはブラジル総領事館の脇っちょで。小腹が減ったっちゃ減ったんで、行きましょっか、「はせべ」。トゥロットゥロのワンタンが待ってますぜ。
 と思ったら暖簾は出てないシャッター下りてる、なんだかお休みみたいな雰囲気ですよ。参ったな。
 ま、そんな日もありますよ。でもそれでもいいじゃないですか。首尾よく謎の自動車写真集が手に入ったんだから。
 え?いや、ほんとはそんな変な名前じゃないすけどね、今度きちんとご紹介しますから、書影はちょっとご勘弁。
 
 でもね、たかが自動車の古本を五千円一万円と狂った値段で売りつけるような「専門店」、さぞかし信者がいるんでしょうがどうなんでしょうね。ちょっと考えちゃいます。
 みんな有難く買わせて頂いてるのかと思えば無残なもんですよ。
 今回その◎◎書店で買ったのは、あの有名な自動車評論家の故・徳大寺有恒氏がまだ本流で使いっぱしりをしていた時代に、初めて世に問うた豪華写真集(非エロ)なんです。しかし余りに出来が悪く、大御所となってからの自著では恥ずかしすぎて無かったことにしたいとまで告白しつづけた、黒歴史の本。
 売れ行きも悪すぎて、実際探そうとしても見つけるまでに十年二十年は覚悟しなけりゃなんない稀少な本なんです。それがカバーなしとはいえ、捨て値で棚に差されていたのを易々と釣り上げてまいりました。
 すでに完全状態で一冊持ってるけど、読むのにはこのぐらい瑕疵があった方が気楽ですからね。
 
 専門店なんてスカしていても、店主は本を売るだけでエンスーでもマニアでもないってケースはよくある話。今回もビニール袋に「杉江博愛著」なんか麗々しく書いてはいても、徳大寺のトの字も書いてない。
 そんな基本も知らないもんだから、古くてもどこにでも転がってる本に万を超える値札を貼り、本当にレジェンドのある稀覯書をバカみたいな値段で放置する。
 バブル崩壊からこのかた、無神経な古本屋が増えたものです。
 
 
  
 
  
 
 
 
 
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バックミラーの証言

 
  『バックミラーの証言-20人の宰相を運んだ男』の、書影公開です。
 
 戦前戦後を通じ内閣付き公用車のドライバーとして二十人の総理大臣に仕えた、柄澤好三郎(からさわ こうさぶろう)氏。この柄澤氏とNHK取材班の共同著作、という形になるのでしょうか。昭和五十七年六月、日本放送出版協会による出版になります。
 共同著作と表現したのは、主人公たる柄澤氏の証言テープを取材班が文字に起こし文章化した、という意味です。もともとは昭和五十六年に放送された同名番組のための取材がベースにあり、番組に収めきれなかった証言を含めて一冊の伝記となるよう再構成したもの、といえるでしょう。
 
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 『ドライバー実録』の時にも少し触れたんですが、数えきれない職業の中から人がクルマの運転という仕事を選び、それを生業として人生を歩んでゆく。その縁というか、とても興味があるんです。
 もちろんどんな職業に就く人にも、似たようなドラマはあるのでしょう。でもクルマ好きな私にとって、やはり一番興味を惹かれるのがハンドルに託した人生。ということなんです。
 
 柄澤氏も最初は製薬関係次いで写真館と、まるで自動車とは無関係な仕事に就いていました。ところが甲種合格で兵役に取られた先が、どういうワケか陸軍自動車隊。集められた新兵の中には、クルマという機械を見たことがない人もいたそうです。牛馬のほかでは到達できない山村部落など当たり前に存在していた、大正十一年のことですからね。
 つまりクルマ自体も珍しかったが、それを操る技能の持ち主であるドライバーなんて、輪をかけて珍しい時代だったのでしょう。政財界および畏き方面などからもドライバーの需要は高く、引く手あまた的な状態だったようです。
 そんな中でも柄澤氏は良い出会いを重ね、内閣雇という職を得ます。内閣の直属ドライバーという意味合いなんでしょうか。
 
 最初に乗せた内閣総理大臣が昭和二年・第二十六代の田中義一(たなか ぎいち)。ここを振り出しとして昭和二十三年・第四十八代首相の吉田茂(よしだ しげる)まで、実に二十三代二十人の歴代宰相を背負って柄澤氏は走り続けることになるんです。戦前から敗戦直後まで、内地とはいえテロあり軍事クーデターあり、いかにも日本の歴史上最も危険な時代だったでしょう。なにしろ乗せているのが日本の最高為政者ですから、ある時は割れんばかりの喝采と栄光、またある時は飢え切った国民や政敵から向けられる剥き出しの敵意の中を、きわどいスピードで駆け抜けてゆくワケです。
 この本には、そんな歴代首相を間近で見たエピソードのかずかずが、引退して保秘の縛めを解いた柄澤氏の言葉として縷々語られています。
 
 そうそう、忘れては失敬。この本の影の立役者は、実のところ柄澤夫人のふじ氏でした。妻として最も近く柄澤氏とその仕事を見続けてきたその言葉、なぜ人はドライバーという職業に携わり続けるのかという、私の根本的な疑問に対する大きなヒントになったようです。
 GJ、奥さん。
 
 判型はうっかりすると「B6判」なんて書いちゃいそうですが、ここはキチンと「四六判(よんろくばん・しろくばん)」としておきましょう。いわゆるハードカバーなんですけどね。カルトン表紙の本冊にコート紙のカバーと帯、およびスリップ綴じ込みといった、簡素な成り立ちです。昭和五十七年、当時ならこの程度の書籍でも当たり前のように折丁糸綴じの仕立てがされていて、頁を力一杯広げても不安がありません。
 カルトン表紙というのは、本文用紙の束を保護する目的で、表紙に一回り大きい厚手のボール紙を使う製本法です。こうすることで束の周囲に「チリ」と呼ばれる余地が生じ、これを潰れ代とすることによって様々な外力を受け止めて、衝撃が束まで達しないことを期待しています。
 クルマでいうならモノコック(応力外皮)ストラクチャー、でしょうな。
 
 
 
 
  
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禅とオートバイ修理技術

 
 『禅とオートバイ修理技術』の書影です。
 ロバート=パーシグ著、五十嵐美克+兒玉光弘訳、19904月めるくまーる社刊、ですね。
 
 680頁すよ680ページ。いやほんと分厚い本です。
 この680頁の中にパイドロスとかプラトンとかいったギリシア哲学の賢人があちこちで顔を出し、<クオリティ>なんてVANヂャケットの広告でしか見たこともないような単語がバラバラまき散らされ、おまけにバイクの修理(というか日常的なメンテナンス)の丹念な描写なんかまで書かれてます。
 もう読みはじめてすぐ頭パニック。ナニが書かれてるのかまったく理解できず、徹夜で悩みましたよね実際。あの頃の私は内容なんかより、まずこの本の持つ物理的な質量に圧倒されてしまったんでしょうね。
 
 若かったんだよな、んへへへへ。
 
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 基本的には旅もん、なのかな。
 ロボトミー手術で過去の記憶をほとんど奪われた主人公が、断片的に残された手術以前の記憶と現在の自分を繋ぎ合わせるキッカケを求めて、息子とバイクでロングツーリングに出る。そんな建付けのストーリーです。・・・だったような。・・・だったかもしんない?
 翻訳者のあとがきによると原書の出版が1974年だそうで、著者パーシグのまえがきでは百人以上の編集者に出版を断られた、と書かれてました。
 しかしヒッピー文化全盛、東洋のミステリアリスム全開、のアメリカでは爆発的な大ヒットとなり、一世を風靡した本らしいすね。ある年齢層にとってはバイブルなんでしょう。
 
 旅の途中で主人公は、絶えずフラッシュバックしてくる過去の記憶や光景が現在の自分にどう繋がってくるのか、或はそれ自体は自分にとってなんの意味があるのか、哲学的な知識を総動員しながら探究し続けます。
 しかし、実際問題としてその旅は十一歳になる息子のクリスを後ろに乗せたバイク旅ですからして、走ってる最中はそっちに集中することになります。じゃないと転んだり前のクルマにオカマ掘っちゃったり危ないすからね。
 当然ですが、バイクが壊れたら修理担当は主人公。野宿ならテントも張るしメシも作る。旅の意味も知らされずバイクに乗せられた息子のご機嫌も取らなきゃなんない。そんな日常的なツーリングの雑事と自分探しのスピリチュアルなトリップが並行して、ひとつの物語として進んでゆくワケです。
 やがて旅路を共にしてきた友人とも袂を分かち、息子とは分かり合えず、主人公は次第に孤独と苦悩を深めてゆきます。その辺からがこの本のキモになんのかな。
 記述にも精神性を帯びた表現や哲学用語を連発。読んでた私は「きゅう」と言って何度も白旗を上げそうに。
 でも、真っ暗なトンネルを怯えながら手探りで進むようなこの読書、最後の最後で目の眩むようなショックを伴う爽快感が待っていたんです。ああ、パーシグはこれ読ませたくてここまで私を追い詰めてきたのか、的なね。
 
 「精神世界」なんつスカした言葉が日本でも流行りはじめていた頃でしょうかね、1970年代の後半て。若者よ、イカしたクルマや可愛いおネエちゃんや、目に見えるモノだけがこの世界の全てではない。隠されているものにこそ真実が宿っておるのだ。だから、ユメユメ新宿コマ劇場の前なんかで毎晩ナンパに精出そうなんかタクラむでないぞよ。な~んつってね。60年代中盤にアメリカ西海岸あたりから広まった自由な若者文化の、あからさまな劣化コピーでした。
 なにより日本じゃファッション雑誌『ポパイ』をはじめとしたマスコミ主導のイメージ戦略、物売りの呼び込みでしかなかったワケですからね。
 とはいえ、中には本当にその精神世界にのめり込み全身からブキミなオーラを発しながら、ヨガだの禅だのハッパだのと日々精進していたヤツラもいたことは事実です。まそうゆうのは大体中央線沿線の環七よか外に集まってたから、ナウなヤングのハマッコだった私には関係ない。
 そうして自称真実探究の使徒・精神世界クンたちのバイブルにもならず、時を経て物欲性欲金銭欲の大爆発「高え服から順番に持って来い」のバブル絶頂期、最もバッド(出版事業としてはグッド)なタイミングで本書は出版されたというワケです。
 これもなにかのカルマなんでしょうかねえ、くっくっく。
 
 この本には、前段として原書出版直後の邦訳(抄訳)『息子と私とオートバイ』があります。新潮社1976年刊、早乙女貢訳。カバ男は読んでいません。
 それから、のちには早川書房から上下二巻の文庫本としても蘇った模様。もちろんカバ男は、読んでませんったら。
 一度読んだらもう、お腹いっぱい。再読なんかもってのほかですぜ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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妙縁結縁










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恐怖考

 
 遠丸立(とおまる りゅう)著『恐怖考』、原刊本の書影を公開します。
 19717月の発行で、発行元は仮面社でした。カバ男は仮面社という版元をこの本で初めて知りました。恐らくは当時気鋭の編集者などによる、新興の地方小出版(大手出版取次会社が扱わない出版社)だったのでしょう。
 1971年。まだ言論出版界の活力はあり余るほどに旺盛な時代でした。
 
 遠丸立氏は、詩人としての活動と思想・評論活動を並行して進められた方のようです。初期の出版活動は仮面社と連携しており、第一著作の『吉本隆明論』も同社から出されました。
 『恐怖考』の巻末には初出一覧があり、この本が各誌への寄稿文を集成した、いわゆる論考集の体であったことが判ります。しかし夫々の章は互いによく関連を保っており、遠丸氏が最終形態としての本書をずっと念頭に置いて書き継いできたことを思わせます。
 
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 書評などではこの『恐怖考』について、「恐怖についての論考」なんて安直に表現することが多いようです。そのまんまじゃん。評者が一頁も読んでないこと、バレバレ。
 この本で遠丸氏が語る「恐怖」というのは、例えば姿の見えない野生動物に対する怯えとかとは、ちょっと意味が違ってます。何かがあって生じる一時的な感情ではなく、人間の精神活動に予め組み込まれている本能のようなもの、まだ名付けられていない精神の一作用のことをここでは恐怖と呼び、さまざまな角度からその解明に挑んでいます。
 言い方を変えると遠丸氏は、生まれてから死ぬまで人間が常に心の最も深い部分に持ち続けている原始的な負の衝動?みたいなものの存在を仮定して、精神社会活動に不断の影響を及ぼす「それ」を恐怖という言葉で表しているわけです。この恐怖に対し、宗教民俗学、哲学、心理学など夥しい過去の評論から牽強付会、怒涛のように資料を援用して論考しています。
 
 B6判ってサイズなのかな。やや小振りな、日本人の手に良く馴染む大きさです。
 本文は薄口のコットン紙に活版印刷。この束(つか=製本段階にある本文用紙の結束)に対して、表紙は全面をデザインした極薄のアート紙で表装しています。外装は段ボールの挿入箱で、その上からやはりデザインしたアート紙が貼り込まれています。
 画像の通り、剥き出しのアングラ魂を叩きつけるような装幀デザイン。思想評論の本としては過剰なほどのセンスで、見返しなどの配色もまた七十年代デザインの先駆けのように洗練され、キンキンに尖っています。カバ男は、こんな装幀のできるデザイナーは渡辺東氏以外に知りません。違うのかなー。
 
 一篇の思想評論としてあまりにもメッセージ性の過剰なアピアランス。売れなかったんだろうな、とは思います。この本は下手するとバブル直前あたりまで、神保町のゾッキ本(版元自身が数をまとめて捨て値で卸した新古本)専門店に山と積んでありましたから。カバ男もそれを横目で見ながら、一度読んでみたいなーと思いつつずいぶん長い間手を出しませんでしたね。デザインに凝った思想書なんてハナっから馬鹿にしてましたし。
 でも結局は買って読んでしまったワケで。
 デザインが良かったから(笑)。
 
 不思議なことに、この本には読者ハガキとともに716月版の角川書店『新刊・重版案内』が挟まっているんです。その案内には遠丸立の名前も、『恐怖考』の書名もありません。
 唯一考えられるのは、仮面社がこの案内を挟み込むのと引き換えに、初手から一定数を角川書店枠で取次に流したこと程度かな。でも、そんなことあり得るのか、素人のカバ男には分かりません。
 
 
  
 
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新年彷徨










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