One way Hippoman


 人が住む限界地点、川崎市川崎区小田栄(おださかえ)。
 JR南武線(なんぶせん)・浜川崎支線(はまかわさきしせん)の小田栄駅は、無人駅である。

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 頭上には労働者の絶望を映したような鈍色の大空が広がり、バラックめかした建屋の奥からは、そこはかとなく猫足プレスの音や鉄錆の塩っぱい匂いが聞こえて来るようだ。

 この先の駅が貨物駅も兼ねている浜川崎という終着駅。そこに人の暮らしはない。見渡しても高度経済成長期なら「命と交換」などと恐れられていた過酷な肉体労働の場が、今は小綺麗に様変わりして静かに佇むのみ。
 その昔京浜工業地帯のど真ん中に立ち尽くし「春は鉄までが匂った」と嘯いた旋盤工の名は、なんと言ったろう。

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 品川で京浜急行に飛び乗り、私は急ぎ南を目指していたはずだった。それが何故だか八丁畷(はっちょうなわて)などという鈍行だけしか止まらない駅で南武線に乗り換えて、こんな辺境に降り立った。なにやってんだオレ。

 さてこその昼飯時。この荒廃した土地柄を見れば、目を剥くような美味いもんなどあるとは思えない。
 二十年前なら、軒先に素焼き作りの獅子を並べてテビチだのラフテーだのを出すショボい居酒屋など、ちらほら見受けられていたと思う。看板を出さず木造アパートの二階でひっそりとケジャンクッ(Dog soup)を食わせるような商売も、何軒かは知っていた。しかし今やそれらは全て大津波のような仕舞屋の進撃に蹂躙され、絶滅したという。
 これで気候が良ければ「セメント通り」とか「日本鋼管通り」など重厚長大産業華やかなりし頃の名残りを訪ねてフラフラと徘徊もできようが、生憎今は夏。足は一歩も前へ出ない。
 そんなワケで私は目的を完全に見失い、即時撤収と決め込んだ。

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 同じ道を通って帰ることのできない私は、さてどう帰ろう。終着駅まで行って別線の鶴見線(つるみせん)に乗り換えれば、安善(あんぜん)、弁天橋(べんてんばし)、国道(こくどう)などの駅を通ってJRの鶴見駅に辿り着けるはず。
 西口の中華「満州園」はまだ美味い平打ちの湯麵(タンメン)を出しているだろうか。

 あるいは逆の終着駅である尻手(しって)まで戻り、南武線本線に乗り継いで矢向(やこう)、鹿島田(かしまだ)、向河原(むかいがわら)と辿り、武蔵小杉(むさしこすぎ)で「ステーキあさくま」の学生ハンバーグでも食うか。そこから湘南新宿ラインに乗り直せば、眠っていても北へと帰ってゆけるはず。

 どうすっか。右か、左か。
 ああ、腹が減りすぎて頭が回らん。











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南風開陣2023


 とある湾岸のアウトレットにて。

 買い物なんかにゃからっきし興味ねいし、腹も減っちゃねっし。
 何見てもつまんねっし、どの店入っても店員にゃスルーされっし。そんな無趣味でうらぶれたオッサンどもの処刑施設だよなアウトレットって。つうかラーゲリ?どうでもイイけど本当に時間のムダ。
 ふんじゃここは携帯切って単独行動、ブレイクさ。

 東京湾から吹き寄せるシーブリーズ?つうのに身を任せ、ピースすぱすぱキメて、ふんぞり返って飲むキリンメロンは格別さ。
 この味はスポライトなんかじゃ出せないね。

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 え?キリンレモン?
 オレ今なんつったっけ。わはは










千代田城


 「宮城」とは言うけど、「江戸城」たあ言わねいよなぁイマドキは。


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 あいや、東京駅で「すいませんが宮城へはどう行けば」なんか若いアニキに道聞いても、「こっから一番近い球場は水道橋の東京ドームだからさあ、おっさんもう一回電車乗り直さなきゃだめっすよ」とか親切に説明してくれちゃうし()
 でもって、皇居は行ったことあるけど江戸城はどこにあんのか知んねいなんつうヤツ、これまた本当にいるんだよなー。

 戦後教育ってやつですか。あそうすか。










カバ男のブログ 課外活動 モデルガン考古学

 

 ブログを書いていない時、私は現実の世界で何か面白い事をやっている。

古い洋式帳簿のメンテナンスとか散歩で見つけた変な国語の看板へのツッコミとか、同じ形のシューキーパーを次々と引っ張り出して些細な違いを面白がったり。思うようにトラ(旅)に出られないここ数年はそんな風に身体よりも頭を使うことが多くなっているが、それはまあそれで楽しい。


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 1970年代にサンフランシスコ近郊のガンショップOld West Gun RoomT94(帝国軍用九四式自動けん銃)を象った鋳物文鎮がドアノブとして使われていた。あれは何だったのだろう・・。そんなネット上の噂が何年も前から私の興味を惹いていた。

 それとは別に、「モデルガン考古学」をそろそろ一段階進める頃合かなとも思っていた。ヤフーブログ時代に一旦は完結していた中田商店製の初期鋳物文鎮に関する考察など、実は全てのモデルを網羅できないままでFC2側にサルベージしていたのである。エントリー公開の後に教えてもらった多くの情報を吟味しつつ、ここは他人の受け売りをしてでも残りの数点を考察してコンプリートしておくべきではないか。そんな気持ちで何か裏付けの情報などないかとネットサーフィンを始めたのが、十一月初め頃だったと思う。

 

 Lytle Novelty Co.という会社が1950年代の半ば頃からロサンジェルス市内にあり、ここがアルミで出来たけん銃形の鋳物文鎮を作っていたことは知っていた。Lytleの発音はライトルとかリトルとからしいが実際のところは分からない。ここでは仮にライトルとしておく。このライトル製鋳物文鎮は、その後1960年代の初頭になって一定の数がわが国に輸入されていたらしいことも、当時のカタログなどから明らかになっている。述べた中田製の初期文鎮は1965年の製造なので、もしかしたらライトル文鎮は何か潜在的なヒントになっていたのかもしれない。そこでライトルの商品ラインナップや具体的な紙資料などを探し出すことも、モデルガン考古学者()としては大変に重要な課題となっていた。

これらの出来事はみなわが国に「モデルガン」という概念が発生する数年前に起きた出来事と、モデルガン創成期の爆発的な業界の成長に関わる数えきれないエピソードの一端。少しずつ互いに関連しており、その内一つの疑問にさえ答が出れば連鎖的に氷解してゆくのではないか。なんとなくそんな気がしはじめた時、暦はもう十二月に入っていただろうか。しかし実際は何ひとつ足掻きが取れず、停滞が続いていた。

 

 『MGC 奇跡の終焉』という本が、その少し前に出版されていたことを知る。感じるところがあり、神保勉氏というモデルガン業界のビッグネームが書いたこの本を直ちに取り寄せて読み切った。そして神保氏が綴る追憶の端々に、私の中に欠けたままだった知見のミッシングリンクが散りばめられているのを知る。

わが国にモデルガンという名の玩具が生まれる直前の1960年、氏が興した日本M.G.C.(モデル・ガン・コレクション)協会の団体名によってすでにモデルガンという言葉が存在していた。玩具製品が世に出る前に言葉があり、言葉の前にすでにして概念が神保氏の中に確立されていたのである。その当たり前のような事実を再認識したことが、この『MGC 奇跡の終焉』を読んだ最大の収穫だったろうか。


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 九州発の老舗モデルガン史研究ホームページ『Yonyon22.site(旧・Yonyon Home Page)』で突然Lytle Novelty Co.の1956年オリジナルカタログが公開され、詳しい考証に思わず声を上げたのも同じ今月初頭。サイト主宰者のmaimai氏はさすが甲羅にコケの生えた古強者らしく、国内の絶版雑誌や広告類を慎重に援用しながら堅実な推論でLytle文鎮の、モデルガンという言葉の源流に肉薄している。それにしても、選りにも選ってこのテーマでこのタイミング。面白いシンクロ現象に、やってくれたわいと素直に拍手を送りたい嬉しさと感謝の念がこみ上げる。また一歩、モデルガン考古学の進展をみた思いだ。

 

 今月に入って一つまた一つとリンクが繋がりはじめる予感を感じている。予感といってもリンクの在り処が見えはじめた、というか形が見えてきたという程度ではあるが。

 たまたまSunny210氏に別件でメールを送ろうとしていて、不図思い立ってOld West Gun Roomについて何か思い出などないかと問いかけてみる。Sunny210氏は現在ブログ『国内規制適用外』で多方面に亙って健筆を揮っているが、元々はホームページ『ZINC PROPS』時代から一貫してわが国のモデルガンに関する考察を続けているエンスージアスト。実体験としてモデルガン創成期を知る人物でもある。そしてよくよく考えてみれば、1970年代後半からのサンフランシスコと近隣各地の情況を、これまた在米邦人として広く見聞しているはずなのであった。


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 ほどなく来た返信メールを開き、ニンマリと笑った私は頻繁に何度かのやり取りを繰り返す。
 そしていよいよSunny210氏に会うため、コートを羽織り資料を詰め込んだバッグを下げ、師走も押し詰まった東京の雑踏へと足を踏み入れてゆくのだった。

 ブログを書いていない時、私は現実の世界で何か面白い事をやっている。

 




 

 

カバ男のブログ『中田商店文鎮シリーズ』 




 

 

 

K'z Gunshop

 

 ケイズ?
 ああ、この道まっつぐ行って右に曲がって左に曲がったビルの2階さ。
 いいっつことよ、気いつけて行きな。

 

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 何んだい、やつてるかつて?

アンタ、今頃になつてナニいつてんだよ。

モウジャカスカやってんだぜ(笑)!

 

 

 







 

 

「がちゃガバ様」異聞

 

 HOBBY FIX製『コルトM1911A1 1942年ミリタリータイプ』亜鉛合金ダイキャストモデル。

1977年の銃刀法改正によって、金属製ガバメント(M1911)族のモデルガンは製造販売が禁止された。本作はその法改正から四半世紀を経て、同社が完全合法新設計のモデルとして、満を持して世に放った製品。ネット情報などによれば2001年の出来事で、数量限定だったとされている。

 メーカーは市販化の準備段階に於いて、法令の解釈は当然のこととして執行現場に於ける要件の認定事例なども情報収集し、詳しい擦り合わせを行ったものとみえる。そのうえで尚顧客が絶対安全圏内で保護されるよう、疑念回避のためにほとんど内部メカを設けずに本作を製品化したようだ。

 したがって作動それ自体もモデルとされた実銃のガバメントをまったく再現しておらず、トリガーを絞ると連動するスライドが頼りなく前後にチャカチャカ動くだけのもの。往時の金属モデルガンのように火薬を使って轟音を放つことなど望むべくもなく、模擬弾の装填排出アクションを楽しむことも不可能なのである。そもそもマガジンを装着しようにも物理的に入らないし、バレルは前後が塞がったムクの金属棒なので、模擬弾が収まる内部空間すら存在していない。

 にも拘らず外観は非常に克明で、亜鉛合金とはいえ動かせば金属特有の硬質な響きがあり、重く冷たい迫真の存在感を身に纏っている。


見えているのがその現物で、軍用ガバメントの真正けん銃ならダークグレー一色のところを、国禁の縛めを受けて金色メッキが施されている。おまけにカチャカチャ作動のために止むなくセットされていたロングトリガーを史実準拠のショートタイプに付け替え、無作動化された個体なのである。

 

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 「がちゃガバ様」という奇妙なモデルガンの噂を聞いたことがあった。

 最初は五年ほど前のことだろうか。平生そうした物とは無縁な暮らしを送っていた私のこととて、恐らくは数合わせで招かれたアメ横オフ会などの酒席で、マニア同士の雑談を小耳に挟んだものかと思う。

「“がちゃガバ様”ってゆうんだよね、あれ。知ってる?」

「んんーがちゃガバ様?聞いたこともねいが、ガバってこた、ひょっとしてガバメント」

「そうガバメント。でもさ、がちゃガバ様は普通のガバじゃないんだよね。有難いんだ。ご利益があるんだ」

「うはは冗談だろ。聖天様やお不動様でもあるめいし、モデルガンなんかが誰かの願いでも叶えてくれるっての。ありえねー、あちょっと姐さん杏仁豆腐一個持って来て」

「すいませーん、そこのタッチパネルでお願いしま~す♡」

こんな風に、冷や酒に朦朧となった頭で誰かと言葉を交わしたことだけを覚えている。


モデルガンとか軍装品趣味を商売にしている面々の間でひっそりと語り継がれる都市伝説「がちゃガバ様」。その御神体はまばゆいばかりの黄金色で、ブラックホールとかヴィクトリーショーとかといった、いわゆるミリタリー・イベントの会場に姿を現すのだとも言われていたようだった。

だがオフ会はそのまま散会してしまい、私もがちゃガバ様のファンタジーは忘れて退屈な日常へと戻ってゆくのだった。

 

それから暫くして、私はとあるプラモデラーのワークショップを訪れていた。主はすでに還暦を過ぎた趣味人で、金属モデルガンに関しても全盛期から今に至る半世紀近い歴史の、語り部として知られた人物。プラモデルやガレキ(ガレージキット)などに興味もなく客になったことすらないのだが、この主を訪い過ぎ去ったモデルガン黄金時代について取り留めのない思い出話をするのが、世間無用の私にとって折々の慰みなのである。
 その日は主も手が空いていたのか、興が乗るままにつまらない駄洒落の掛け合いなどで時間を過ごした。

「おおっとそろそろ帰らねいと電車がなくなる。風呂にも入らんと」

「んあーもうそんな時間か。まあ気を付けて帰んなさいよ、走って転ぶと怪我をするから」

「ふん、それほどジジイじゃねいぜ。じゃあの」

「また来いよ。そんときゃコイツの話でも」

ゴト。

 デッキジャケットを羽織ってドアを開けようとしていた私は、妙に硬質で重々しい金属の響きを背中に受け、ゆっくりと振り返った。そこには顔色の悪い鈴木ヒロミツが、あいや主が、作業台でキラキラと光るガバメントを前に不敵な笑みを浮かべていた。

「んんー?そりゃガバか。MGC?」

「目え上がってんじゃないよ。ホビフィよホビフィ」

「ホビフィ?ホビ、ああホビーフィックス。へえ、じゃこれがあの指アクションのガバかあ。よく出来てんねえ、リヤサイトは別パーツなんだ」

「がちゃガバ様な」

ん?

「“がちゃガバ様”って呼ばれていたんだコイツ」

「んなぁにー?!これがあのがちゃガバ様なんですと。マジすか」

「あ知ってた?まあ昔の話だけどね」

「ご利益があってなんでも願いが叶う神ガバなんだろ?へえ、これってその本物なの。じゃ、てことは、あんたがあの伝説の持ち主だっつう」

「伝説かどうかは知らないけどね。持ってたよ、いつも」

 

まだバカげたコロナ騒ぎもなく、不景気とはいえミリタリー趣味のディープな世界が活気(狂気)を失っていなかった時代。ミリタリー・イベント開幕直後の喧騒と全国から雲霞の如く集まったマニア連中の生み出す熱気には、尋常ならざるムードがあったらしい。

客入れが始まると、掘り出し物を狙って待ちに待った老若男女(女は少数)が目指すブースに向かって雪崩れ込んで来る。広大なイベント会場を彼らは全力で走る転ぶ飛び越える。口開けして数分も経たぬ内に、人気の出品ブースでは合成飼料にたかる養殖ウナギのように客同士(ほぼ男)が絡み合い、押すな押すなと降って湧いたような活況を呈するのである。しかして売り買いの怒号が高まり、会場はたちまち公設市場か事故現場かというほどの騒音に満たされてゆく。これも季節の風物詩といったらよかろうか。

 だが、その騒ぎも初めの内だけでそれほど長続きはしない。
 二時間も経てば大抵の客はお目当ての品をゲット完了。そのまま見逃したブースのチェックや更なる掘り出し物を求める緩慢な巡回モードが始まれば、場の殺気はゆっくりと鎮まり、それにつれて商売も一服の趣となってゆくのだった。

そんな時である。人気のない片隅の方から不意に硬質な金属の打ち合う響が二度三度と聞こえて来たような気がして、掘り出しパトロール中のマニアが足を止めた。しかし顔を上げて音のした方角を見ても、何も見えないし何も起きていない。空耳か?

 思い直して再び歩み出そうとした刹那、今度はもっとハッキリとその金属音が響いて来る。

カッシーンッ、カッシーンッ、カッシーンッ!!

「なんだなんだ」

周囲の客も異変を察知して動きを止める。

カッシーンッ、カッシーンッ、カッシーンッ!!

「なにがなんだ」

「がちゃガバ様だ。がちゃガバ様が出たぞ」

「はあー、今年も出たか!」

カッシーンッ、カッシーンッ、カッシーンッ!!

「何処だ何処だ。今日という今日は拝みに行かねば」

音を潮に人の流れが変わる。その音は会場の高い天井と空虚なマニアの心に繰り返し反響し、閑古鳥の鳴いていたブースに三々五々と客が蝟集を始めるのであった。

 

 「そんなところだったかな。なにしろお客さんが集まって来るのさ」

「人を引き寄せる力があるのか、このガバメントには」

「いやいやもっと単純な話。だってあの頃は、モデルガンといえばほとんどプラスチックになっちゃってたからねえ。イベントでもメインで売られていたのはプラのエアガンばっかりだったし、どう動かしても金属的な響きは出なかった。だから俺がタイミングを見計らって派手にコイツのスライドを動かせば、なんだなんだ的に興味本位で人が集まって来たというワケさ」

「なるほど」

「十人集まればその内の何人かがパーツや用品を買ってくれる。買わなくたって、金属モデルガンの時代を知ってる古いマニアが話しかけてくれたりするワケじゃん。それで昔話に花が咲いたりすれば、こんなヤツがいるんだなって覚えてもらえる。で次は最初からウチのブース目当てで買いに来てくれたりしたんだよ」

「通行人の足を止めて注目させるったあ物売りとか大道芸の基本だもんな。なあるほど。それと同時に、集まってくれた客の願い事を叶えてあげたっつう」

「あるワケないだろそんなこと。俺は宜保愛子か?そうゆうのはきっと誰かが話を盛ってるんだよ」

「むうそうなのか。てことは、がちゃガバ様というのは、要するに普通の指アクションモデルだった。そうゆうことなんだね?」

「そうだよ。だけど、コイツを鳴らすと物が売れた。有難いよね、だってイベントなんか場所代払ってブースを出してるワケだし、コイツをガシャガシャって何回か鳴らせばショバ代の足しぐらいに売り上げは出たんだからねえ。それで周りの誰かが呼ぶとはなしに冗談で“がちゃガバ様”って呼びはじめたんだろうよ」

そこまで語り終え、主は冷めきった缶コーヒーを飲み干した。


 作業台に向き直り、私はがちゃガバ様の御神体、すなわちホビーフィックス製の指アクションモデルを手に執って仔細に観察してみた。
 全体的に厚手のメッキが施されていたが、よく見ると往時の金属製モデルガンとは違って表面に鋳型の跡が残っていないのが分かる。勿論ヤスリやベルトサンダーなど粗雑な手加工の痕跡はどこにも見出せない。メーカーはダイキャストであることを感じさせないように、手間をかけてパーティングラインを処理しているようだった。
 指の腹に感じる冷たく重くヌルッとした握り心地は実銃の感触を蘇らせ、レンジのバックヤードにでもいるような感覚の混乱を生じさせる。

構えてみるとリヤサイトやエジェクター、エキストラクターのメッキが色違いとなっており、別のパーツになっているようだった。四十年も前に玩弄していた東京CMCの製品とは佇まいがまるで異なっている。
 意地悪くゆっくりスライドを動かしてみて気付いたのは、バレルがほとんど遅れずに追従してくる点だ。何度やってもバレル後端のフードがピッタリとスライドに接したまま後退してくるのは、ロッキングラグが精度良くスライド内面と嵌まり合っている証拠なのである。これには驚いた。

「あ、リコイルスプリングだけはMGCのに替えてあるよ。その方が響きが良いんだよね。変えたのはそこだけ」

 この時は私もこのモデルを初めて見たので分からなかったが、今思えばたしかにスライドを引く手にはそこそこのスプリング抵抗を感じていた。指アクションというメカは、トリガーに掛けた人差し指一本の力だけでガバメントの重いスライドをピストン運動させるものである。その必要上、関連するスプリング類はすべて極端に低いバネ定数のものを、イニシャルプリロードもほとんど与えずに用いざるを得ない。

 つまりがちゃガバ様の御神体とされるその個体は、指アクションで遊べなくなるのと引き換えに残響音が大きくなるよう、強めのスプリングでスライドの復座スピードを上げるセッティングが施されていた、ということのようだった。こっそりバレルブッシングを確かめたが、やはりクリアランスを詰める高精度なフィッティングが施されているように見えた。


 「ありがとう。幽霊の正体見たりじゃないけど、コトの真相なんて概してそうゆうもんなんだね」

「普通のガバよ。神とかなんとかは周りが勝手に言うだけで、俺自身は普通に接してるだけなのさ。ミステリーは、ない」

「ところでこのシリアルナンバーは、どうゆうこと?極若番だけど、なんか経緯でもあったワケ。限定本やオリジナルのリトグラフなんかならこの番号は著者家蔵本といって、作家の門外不出にされるほどなレベルだよ」

「あ、そう。気にしたこともなかったよ。だけどダイキャストなんだからさあ、カッコいい番号のまま何個だって作れるじゃん。昔のモデルガンを忘れたのか」

「むうそれもそうだ。だがね、これほどのクオリティーで製品を作るんだから、メーカーだってシリアルナンバーの持つ意味ぐらいは重々承知していたはずだろう。こんなに若い番号でホイホイ何個も作るかねえ。どうも引っかかる」

「いやいやいや、どういたしまして。ところで言っちゃあなんだけどさ、今カバ男が引っかからなくてはいけないのは、ソコじゃないんじゃないのかな?」

親切そうな笑みを浮かべた主は、そう言いながら軍隊式に左の手首を右手の人差し指でとんとんと叩いた。つられて私も腕時計に目を落とす。

「ありゃまー、終電行っちゃったよ!」

「ははは」

「バスは、あバスなんかあるワケないよな」

「はっはっは」

「かといってこんな場末に流しのタクシーなんか通らねっし」

「悪かったな場末で。歩いて帰んなさいよ。足を使え足を」

「ハッ、そうだ。がちゃガバ様がちゃガバ様お願い申します!どうか終電の前まで時間を戻してください!!なまんだぶなまんだぶノーマクサンマンダーアビラウンケンソワカ」

「バカじゃねえの」


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 金属モデルガンの長い歴史を振り返る時、私は幾つかの特異な個体を思い浮かべることができる。制作者の強い情念が金属に宿り、生み出された特殊なモデルの数々。その中でもひときわ特殊な由来、精度であったり稀少性であったり関わった人物のレジェンドであったり、そうしたものを濃密に身に纏ったオーラのある個体はたしかに存在している。

だが、それらの大半は名のみ知られても人目にほとんど晒されることがなく、持ち主から次の持ち主へとひっそり伝世してゆくようである。その後にはマニア連中お得意の知ったか話が妄想に妄想を上塗りし、一個の玩具でしかなかった金属モデルガンを伝説に祀り上げてゆく。
 その後がちゃガバ様を見せてくれた主のワークショップが人知れず手仕舞されていたと聞いた時、また伝説が独り歩きしはじめるのかと、少々悲しい気分にさせられた。あの極若番の「御神体」は今、何処にあるのだろう。

私は不図、アメリカで行方不明になっているという六研ファストドロウ・スペシャル№12のペアガンを思い出した。アメリカ本国で勇名を轟かせた早撃ちガンマン、マーク・セル・リードの自宅に押し入った命知らずが、本来の持ち主より託されていたオモチャのモデルガンを二個かっぱらって逃げて行っただけという、不可解な噂。

がちゃガバ様の御神体もまた、この先そうした噂の霧に巻かれて金属モデルガンの歴史に埋もれてゆくのであろうか。

 強い情念を籠めて生み出された個性ある金属モデルガンを待ち受ける宿命。物に巣食う人間の業。
 動かぬ金属モデルガンなどどこが怖いものか。本当に怖いのは、人間の欲なのである。

 

 

 

 





 

 

 

5月2日

 

 寝坊!!

 JR湘南新宿ラインで戸塚を目指そうとしたが、間違えて相鉄線に乗ってしまった。車内のLEDサイネージは「海老名行」。ドアが閉まった。

さあて、どーすっかな。

 

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 綠の中をのんびりと走る無人電車。現在「羽沢横浜国大前」という駅に接近中らしい。聞いたこともない駅ですがそれは。

 ところで、最近は「ゴールデンウイーク」という名を使わなくなってるのだろうか。ニュースでも「大型連休」と言っている。

 やっぱ、関係する各方面に寄り添ってポリコレって配慮してご意見を尊重した結果、使わない方向で集約されてるんすかね。知らんけど。

 

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 電車を降りた時、予定時刻を一時間過ぎていた。「私が最終的に目的地に到達できなかったことは、一度もない(カバ男:談)」

 駅前のピザーラで友好ブログの主さんと、青空鑑賞しながらピザが焼き上がるのを待っている。朝のどんよりとした雲がみるみる消え、初夏の明るい陽射しが暖かかった。

初めて知ったんだけど、この店は持ち帰りの場合ピザを割引してくれるんだって。それと、オマケで注文したバニラアイスが濃厚で美味かった。デリピザもバカにはできませんなぁ。

 

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 腹一杯になって帰ろうとしたら、横浜市営地下鉄のホームで人だかりがしていた。このマークというか「4000 DEBUT」のデコレーションをパチパチ撮影している。

 車内にはむせ返るような新車の匂いと、スマホで動画撮影する坊ちゃん集団が()。鉄チャンてゆうのかな。ちょっと目がイッてますよ。

 中吊りの自社稿によると今日から新車輛の運用が始まっていて、私は偶然それに乗っちゃったみたい。ついつい釣られて一枚パチりんこ。

 

 帰りの電車じゃ爆睡で、あやうく乗り過ごすとこだった。

 さて、あとは地元で茶あ飲んで一服キメて昼寝だな。


 電車ん乗って遠くまでデリピザ食いに行った日。ははは

 

 

 

 

 

 

 

かうよ飯

 

 「ルーロー飯」という食い物を、私は黙って食っていた。

 

それは、真っ白いラーメン丼ほどの器に盛った白飯に賽の目に切って茶色く煮込んだ豚バラ肉が山盛りに添えられている、丼飯だった。雑だが、私にはどこか生まれ故郷を思い出させる懐かしい佇まいと風味が好ましかった。

 ここは西五反田。私がいるのは古い雑居ビルに最近出来た中華料理店。特に根拠などないけど、店名に「蘭」の字がある店の老闆は福建や廣東など、南の地方出身者や客家が多いイメージが私の中にある。なので期待値も、高かった。

 

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 大箱の飲み屋でも居抜きしたのか矢鱈に高い天井と仄暗くだだっ広いフロア。客は私一人しかいない。冷蔵庫に載せた大型モニターからは共産中国の歌謡ライブがガンガン響き、店員は皆こちらに背を向けたままノリノリで見入っている。喋り合っている言葉は、みな硬い響きが北京語のようだった。

 時折私は口の中に指を突っ込み、真っ黒に煮しめられた小さな木片のような塊を摘まみ出してはテーブルの縁になすりつける。スプーンで飯を口に運び、モグモグ噛みながら米粒と涎でドロドロになった木片を摘まみ出してなすりつけ、それでも辛抱強く食い続ける。だがすぐに面倒になり、両切りのピースを喫う時のようにプ、プ、と直接床に吹き飛ばしはじめた。何故自分がそんなに行儀の悪い仕草をするのか不思議な感じもしたが、反面そうするのが自然なようにも思いつつ、響き渡るユーロなビートに合わせてプップッと吹き出し続ける。

ハエ叩きを片手に鋭い目付きで店内をパトロールしている老闆娘が気まぐれに近寄って来ては、ピッチャーがマウンドの砂を払うような仕草で溜まった木片を蹴散らしてゆく。

「姐姐、八角が歯に詰まるぜ」

「没有」

「没有?OK好」

老闆娘は何故か笑っている。その顔を見た私は、アルマジロが四頭乗ったチーズピザというのがどんな物なのかを脈絡もなく空想しはじめた。

 それはイタリアのどの地方の料理なのか?或は中南米あたりの混血イタリアンなのか。愛らしいメスチーソの娘が莞爾と笑いかけながら湯気の立つアルマジロピザにかぶりつき、満天の星の下、男と女の視線は絡み合って離れない。ソンブレロの男たちは甘く飄々と『グアンタナメラ』を歌い盛り上げてゆく。

しかし、空想のアルマジロはセンザンコウの姿をしているのであった。

 

 丼が半分ほど空になったあたりで段々と私は飽きてきた。食っても食っても肉は減らず、終わりが見えない苦しさを感じはじめる。もともと大して腹が減っていたワケでもなく、メニューも見ずに臺灣小吃の滷肉飯と思い込んで頼んだ「ルーロー飯」が大碗で出て来たため、余計に飽きた。味も私には塩辛過ぎる感じだった。

改めて丼の中を見る。

白飯と茶色い豚肉は、カレーライスのように分けて盛られていた。これに滷味(甘醤油煮込み)ではない真っ白な茹で玉子が乗り、彩のつもりか小さな青梗菜が一本丼のへりに寝そべっている。これがこの店の「ルーロー飯」なのであった。

「おかしいよな。臺灣の道端で食う滷肉飯はこの1/3、ヘタすりゃ1/4ぐらいのサイズじゃなかったかな。それにこんなに色々具なんか乗ってなかった。小吃では全てのトッピングが別メニューだから、滷肉飯だって単品で頼むかぎり白飯の茶碗に煮込んだ豚肉をサッと掛けただけだよ。真っ黄色なタクアンなんか一切れも乗ってれば儲けもん。そんな感じだったんだが・・・」

私はようやくセンザンコウの幻影を振り払い、最前からぼんやりと感じていた微妙な違和感の理由を解剖しはじめる。


ルーロー飯の豚肉は、八角や桂皮がこれだけ小さく壊れているのに肉が全然煮溶けていない所がちぐはぐな印象だった。それに薬膳臭さも弱すぎる。微かながら中華スパイス特有の複雑な香も感じたが、如何せん弱かった。そして味付けは甘みのない日本の醤油をそのまま使っていて、醤油(ジャンヨウ)はおろか老油も合わせていないためにコクや深みを感じられない。これに強い白酒を使っているのだろう、結局は煮込めば煮込むほど丸みのない塩辛さだけが際立ってくるのである。

そうだ、この滷肉飯そっくりな見た目とは全然かけ離れた一本調子な醤油味。これが違和感の原因に違いない。恐らくスパイス類は最初の仕込みで鍋に入れただけの出枯らしで、基本的にあとは肉と生醤油だけ足しているのだろう。おまけに頻繁に火を落とすから肉が煮溶ける暇もなく、滷肉になっていないんだ。

「してみるとこれは・・、オレが今食っているこの丼は、やっぱ臺灣名物の滷肉飯じゃないな。さしずめ出稼ぎの赤い中国人が日本の臺灣ブームに目を付けて外見だけパクッた、よくあるフェイク小吃に間違いない」

疑いの心が芽生える。なのに何故か懐かしい。妙な感覚だった。

 

 ピザ窯の中に置かれた四角いクラスト生地にほどよく焦げ目が付いて、たっぷりのチーズがその上で沸々と溶けている。そのチーズに膝まで漬けて立ち尽くす四頭のアルマジロ。ブルーチーズの強い香とパルミジャーノの軽快で甘やかな香が鼻を抜け、にわかに食欲が湧いてくる。粗びきの黒胡椒。窯から出して仕上げにアロマの弱いオリーブオイルを振り撒くと、その飛沫が四頭の焼けたアルマジロに飛び散って得も言われぬ芳香を立てる・・・。アルマジロのピザというのはこんな感じなのかな。しかし妙に立体的な構造のそれは、果たしてピザと呼べるものだろうか。そもそもアルマジロは食える動物なのか?

 執念深く蘇るアルマジロピザの圧力に私は再び悩まされるのである。

 

 三度丼を睨む。

すでに中身はあらかた食ってしまい、飯と豚肉は残り二口ほどになっていた。セルフサービスで置かれた麦茶をがぶ飲みし、囘囘族風な衣装に身を飾った中国人歌手の絶唱を眺め、食い、考える。フロアでは若い女店員の尻がビートに合わせてブルブルと上下していた。

「このルーロー飯とかいうフザケた食い物に似たものは・・・、さて控肉飯になるのかな。滷肉飯の具は脂の乗った五花肉をザクザクに細かく叩いてから鍋で煮込んだものなので、実際のところ肉というよりもミートソースのような外見だ。控肉飯は同じ五花肉をスライスした状態で煮込み、形のまま一切れか二切れを滷味として茶碗に乗せて出す丼飯。あのブルブルと震える肉を噛み切って、口の中一杯に溶けてヌルヌルと広がる豚の脂を呑み込んでゆく喉越しは、肉好きが求める食味の極北と言っても過言ではないだろう。硬く炊いた飯に染みた煮汁の甘辛さ、漢方薬のような香料と豚脂の絶妙な調和は、控肉飯ならではの楽しさだよな」

いかんいかん、こんなことばかり滑ったの転んだのと追慕していては、臺灣に行きたい病が再発してしまうではないか。最近は石垣島から宜蘭まで運んでくれる船もあるのだというし。

 しかし、今私が食っているルーロー飯が控肉飯でないのはたしかだ。肉はバラ肉だがスライスでもなくミンチにもしない中途半端な賽の目。しかも醤油辛い。滷肉飯と控肉飯は乗せる肉の姿が違うだけで基本は同じ構成なのだし、屋台で控肉飯を頼むと滷肉飯の上に控肉を乗せて出して来る場合もある。なので今食っているルーロー飯が滷肉飯でないように、控肉飯でもないとは即断できるのである。だが、それでも消えないこの懐かしさは、一体どこから来ているんだ?

はるか昔、私はこの丼飯をどこかで食ったことがある。あれは横濱旧市街の花園橋界隈か?いや加賀町警察署の辺り、或いは南京町のどこかの店だったか?違う。あれは・・・、あれは横浜駅の西口だ。五番街を抜けて岡野町交差点に向かう途中、中国人の老夫婦がやっていた料理店『鄭記』で、私はこのルーロー飯に酷似した飯を食ったことがある。

そうだ。1980年代初頭、私は一時狂ったように毎日あの丼飯を食い続けていたではないか。あの「かうよふぁん」を。

 

鄭記飯店は当時南京町の小店でもほとんど菜單に載せることのなかった意麺や伊府麺を使った料理が普通に食べられる店だった。爺爺が作る焼売は大ぶりの円筒形で、皮を余らせず一杯に肉餡を詰め込んだタイプ。餃子は出さず、常に数羽の鶏を店の裏で肥育していた。ヌーベルシノワなんぞはどこ吹く風、古臭く重く厚みのある質実剛健な料理ばかりを作っていた。

 その鄭記で伊府麺料理にも飽きはじめた頃、壁に貼られた「扣肉飯」という手書きの札が目に入った。指差しながら

「ばあちゃん、あれ何?コウ・・ニクハン?」

「カウヨオファン」

「は?」

「カウヨオ、ファン」

「かうよはん」

「カウ、ヨオ、ファン」

「かうよふぁん」

「カウヨオファン。うまいよ」

なんだ喋れるじゃん日本語。

 

 鄭記が出して来た扣肉飯は、縁のある浅い中皿に白飯を盛り十三香や八角などのスパイスでキッチリ煮込んだ豚バラ肉を合わせた丼飯だった。バラ肉はほどよく脂身を除いた日本人好みのバランスで、薬膳スパイスのカオスである煮汁はしっかりと切られ、別に作った醤油ベースのとろみ餡やザク切りした青梗菜と手早く合わせてから盛り付けられていた。この「うま煮」と呼ばれる餡の醤油風味が、本格的な造りの扣肉を日本の町中華メシっぽい軽快さに仕上げる決め手になっている。そしてここが肝心なのだが、鄭記の扣肉飯は滷肉飯や控肉飯のようなぶっかけ飯ではなく白飯と扣肉が分かれて整然と盛り付けられていたのである。

ぶっかけ飯なのか、肉と飯が分けて盛り付けられているのか。丼に彩の青梗菜を加えているか否か。煮汁はそのままか、うま煮の餡なのか。そんな食ってしまえば消えてなくなる些細な違いのいくつかを手繰れていたら、あの頃もしかしたらもっと色々なことが分かったのかもしれない。人は自分が食ったのと同じ物を作ってまた人に食わせ、料理を繋いでゆくのである。二十代早々のガキだった私が一碗の扣肉飯に着目し、慎重にその構成や味付けを吟味検分することができていれば、あの老夫婦とは違った形でのコミュニケーションがあったのではないか。もっと多くの面白い情報が得られていたのではないか。ただ美味い美味いと豚のように喰らうばかりではなく、私はそうした目配りの下にもっと分析的な食い方をすべきではなかったのか。ここまで考えてきた時、そう当時の自分を詰ってやりたい気分になっていた。

「そうかといって今更何十年も前の「かうよ飯」を思い出すにも限界があるさ。こうしてとつおいつ思い出していても、正直鄭記の扣肉飯が本当はどうだったのか、細部の記憶がほとんど蘇って来ないのがもどかしいよ」

せめて次にこんがりとクリスピーに焼き上がったアルマジロの甲羅を賞味する時、若き日の失敗を思い出そう。疑問を抱き、眼や鼻や耳でも料理を検分することを忘れないようにしよう。

 そこまで銘記し、我に返った私はルーロー飯の丼を睨みつけ、最後まで残っていた冷たい茹で玉子と杏仁豆腐を纏めて口の中に放り込んで、席を立つのだった。

 

「お会計ありがとございます

「はいよ。キミはどっから来てるんだい?」

「え、ワラビ」

「おー蕨ったあ埼玉か。じゃなくてどこの国かって」

「言葉あまり分からない」

「中国人なんだよな?」

「はい中国」

「臺灣?大陸の中国?」

「中国です」

「そうか。じゃあれかな、やっぱ廣東とか福建とか南の方の」

「内モンゴル」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蒲田駅西

 

・・・・・

神保さん、僕のコマンダー、どうしたんでせうね。

ええ、夏、蒲田から下丸子へゆくみちで、農業用水路に落としたあのコマンダーですよ。

 

神保さん、あれは好きなモデルガンでしたよ。

僕はあのときずいぶんくやしかつた。

だけど、いきなりオート三輪が飛び出してきたもんだから。

・・・・・

 

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 蒲田駅西側、東急池上線と多摩川(旧・目蒲)線の集合ホームの賑わい。両路線ともにここが始発駅となっており、線路はここから発している。

 

 1961年。あの夏、このホームはもっともっと賑わっていたのだろう。高度経済成長の波に乗って、京浜工業地帯のど真ん中。朝夕の通勤時は若い男女の工員でごった返し、わんわん爆発するような活気に溢れていたはずだ。

 そしてこの地で生まれたばかりのモデルガンは瞬く間に巨大産業へと成長し、Made in Japanと誇らしげに刻印された製品群が世界中へと拡散していった。


 1961年、夏。Modelgun Age の始まり。

 それをこの目で見たかった。

 

 







 

 

 

 

 

五反田行

 

 バス停。見たまんま()

 

IMG_2047.jpg 

 

 バスあ来ねっしタバコは喫えねっし、やることねっし。

 

 浅野ゆう子も通らねっし()